昨日、入沢康夫さんの訃報をご紹介しました。そちらは先週、報じられたものでしたが、今朝、新聞を開くと、作曲家の大中恩さんの訃報が。2日連続でこうした内容となるのは胸が詰まる思いです(一昨年にも登山家の田部井淳子さんと俳優の平幹二朗さんのそれを2日連続でご紹介した事がありますが)……。 

大中恩さん死去

 大中恩さん(おおな001か・めぐみ=作曲家)3日、菌血症で死去、94歳。葬儀は8日正午から東京都港区赤坂1の14の3の「日本キリスト教団 霊南坂教会」で。喪主は妻清子(せいこ)さん。
 「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」などの童謡のほか、1300曲に及ぶ合唱作品で知られる。24年、作曲家・オルガン奏者の大中寅二を父として東京で生まれた。東京音楽学校(現・東京芸術大)で信時潔(のぶとき・きよし)に師事して作曲を学び、歌曲や合唱曲を中心に創作を続けた。55年、作曲家の中田喜直らと「ろばの会」を結成。テレビやラジオを通じて童謡を家庭に届けるなど、子どものための音楽創作に尽くした。
 82年に日本童謡賞を受賞。89年に紫綬褒章。=一部地域既報
(『朝日新聞』 2018年12月5日)

当方の知る限り、大中氏、光太郎の詩に曲をつけた合唱曲を2曲、公になさっています。昭和35年(1960)の雑誌『音楽の友』の別冊付録に掲載された女声合唱曲「五月のうた」と、昭和37年(1962)にカワイ楽譜さんから出版された『大中恩男声合唱曲集』に収録された「わが大空」。こちらには他に北原白秋作詞の曲も収められています。

「五月のうた」の譜面は未見ですが、「わが大空」が収められた『大中恩男声合唱曲集』は平成16年(2004)に有限会社キックオフさんから再刊され、持っています。

  わが大空002

 こころかろやかに みづみづしく
 あかつきの小鳥のやうに
 胸はばたき
 身うちあたらしく力満つる時
 かの大空をみれば
 限りなく深きもの高きもの我を待つ
 ああ大空 わが大空

 こころなやましく いらだたしく
 逃げまどふ狐のやうに
 胸さわだち
 身の置くところも無きおもひの時
 かの大空をみれば
 美しくひろきものつよきもの我を待つ
 ああ大空 わが大空


この詩に最初に曲がつけられたのは、昭和14年(1939)。坂本龍一氏の師に当たる松本民之助によってでした。そちらはかなりとんがった作曲ですが、大中氏のそれは、奇をてらわぬ穏健なもの。さりとて単純ではありませんが。

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当方、趣味で音楽活動もやっており、そちらの先生が、大中氏の弟子筋に当たられる方です。そこで、大中氏の曲もよく取り上げており(つい3日前も歌いました)、その関係で、平成22年(2010)に一度、氏にお会いする機会がありました。大中氏作のミュージカル「さよならかぐや姫」(初演・昭和40年=1965)が演奏されたコンサートで、当方の先生が指揮、当方は出演ではなく聴きに行っただけでしたが、大中氏もいらっしゃるというので、『大中恩男声合唱曲集』の楽譜を持っていき、どさくさに紛れてサインしていただきました。

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大中氏、こころよくサインして下さいましたが、あれから9年近く経つかという感じです。

ちなみに大中氏、昭和18年(1943)には学徒出陣で国立競技場を歩かれました。そういう意味では歴史の生き証人ですね。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あかるい精神力と合理的な療養法とさへあれば、こんな奇蹟に似た事が、実は奇蹟でなくて誰にでも起り得るに違ひないと考へられて無限の光明を感じます。
散文「竹内てるよ著「いのち新し」序」より
 昭和27年(1952) 光太郎70歳

竹内てるよは明治37年(1904)生まれの詩人。光太郎はたびたび竹内の著書に序を寄せたり、題字揮毫をしたりしています。若い頃に結核性の脊椎カリエスにかかって重篤となり、昭和4年(1929)には、草野心平が中心となって「竹内てるよを死なせたくない会」が結成され、光太郎も力を貸しました。

かつての結核は不治の病に近く、死亡原因のトップでしたが、抗生物質の普及等により、その脅威は薄らぎました。竹内も平成13年(2001)、満96歳まで永らえました。

昭和初めに「もう危ない」と思われていた竹内が恢復し、戦後には光太郎の暮らしていた花巻郊外旧太田村までやって来、自身も永らく結核に冒されていた光太郎は驚きます。同時に、その本復の姿が、畢生の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し始める光太郎にとって、光明になったのではないでしょうか。