11月24日(土)、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんを後に、光太郎の父・高村光雲が主任として制作に当たった楠木正成像を経由、日比谷公園へ。
連翹忌会場の松本楼さん脇の、首かけイチョウ。すっかり色づいていました。公園の設計者・本多静六が自らの首を賭けて移植させたことから付いた名です。
そして、日比谷図書館さんへ。こちらで 「第12回明星研究会 シンポジウム与謝野晶子の天皇観~明治・大正・昭和を貫いたもの」が開催されました。
2部構成で、前半は慶應義塾大学教授・片山杜秀氏のご講演。題して「天皇・戦争・文学 ――与謝野晶子と天皇や戦争のことについて考えるための幾つかの前提――」。
日露戦争期から第二次世界大戦時の文学者等を取り巻く世の中の趨勢について、熱く語られました。
第2部は、吉野作造記念館研究員の小嶋翔氏、明星研究会の中心人物にして歌人の松平盟子氏による対談「明治の子・晶子~明治憲法が公布されたとき、彼女は満10歳だった」。
叙情的な部分のみが注目されがちな与謝野晶子の、天皇や戦争への視点を問題としたもので、短歌以外にも評論や自由詩などにも着目。智恵子の心の病が昂進し、さらに亡くなった昭和10年代はじめころから、大政翼賛の方向へとはまっていった光太郎と重ね、興味深く拝聴しました。
有名な「君死にたまふことなかれ」にしても、単なる反戦詩と片付けられない部分があること、その他の著作を通じても、晶子は天皇制批判などには向いていないこと、デモクラシーの思想と大日本帝国憲法の理念は決して矛盾しないと考えられていたことなどなど。
ただ、残念なことに、会場の使用時間の都合で対談は途中で打ち切りとなってしまいました。
終了後、近くのドイツ居酒屋で懇親会。こちらでお二人から「この後こんな話をする予定だった」というお話を伺えたので、それはよかったと思いました。
懇親会には斯界の泰斗・逸見久美先生もご参加下さいました。それから、たまたま偶然でしたが、当方の目の前に座られた方が、文化学院の創立者にして、光太郎とも交流のあった西村伊作のお孫さんで、驚きました。
配布されたレジュメ等、希望者には代価1,000円で頒布するそうです。主催の明星研究会あてにお申し込み下さい。
【折々のことば・光太郎】
永遠性の無い芸術は真に世界の塵埃である。騒音である。邪魔である。紛擾である。永遠性は何処から来るか。永遠性は人間の実感から来る。
散文「水野葉舟小品選集「草と人」序」より 大正4年(1915) 光太郎33歳
水野葉舟は、光太郎と同年の明治16年(1883)生まれ。光太郎はその突然の死に際し「水野葉舟君は私のたつた一人の生涯かけての友達だつた」(「水野葉舟君のこと」より 昭和22年=1947)としています。「蝶郎」と号し、やはり歌人として初期『明星』に依った時期があり、そこで光太郎と知り合っています。その頃、晶子との間にロマンス的なことがあったとかなかったとか……。
そしてその葉舟の作品には、「永遠性」がある、というわけですね。