11月23日(金)、ゆいの森あらかわさんを後に、都電荒川線で護国寺方面を目指しました。次なる目的地じゃ、文京区のアカデミー音羽さん。こちらで第63回高村光太郎研究会が開催されました。

例年、発表者はお二人。

まずは間島康子さん。文芸誌『群系』同人で、同誌に光太郎がらみの寄稿も何度かなさっています。

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発表題は「五篇の詩とその周辺」。文筆家の眼でご覧になった光太郎詩、という内容でした。

「五篇」は、「根付の国」(明治43年=1910)、「道程」(大正3年=1914)、「母をおもふ」(昭和2年=1927)、「のつぽの奴は黙つてゐる」(同5年=1930)、「ばけもの屋敷」(同10年=1935)。すべて光太郎詩の中では比較的有名なもので、それぞれ人生のターニングポイント的な時期の作でもあります。

また、ご発表を聴いていて感じたのですが、それぞれの詩に「自虐」的な要素が含まれているように思えました。「根付の国」は、欧米留学から帰って見た「日本人」のカリカチュア。この詩だけ読むと、痛烈な批判に見えますが、同時期の詩などを併せて読むと、描かれている対象の「日本人」には、光太郎自身も含まれています。「母をおもふ」と「のつぽの奴は黙つてゐる」には、世俗的な成功とは無縁で、父母に心配をかけたり、世間から白い眼で観られたりする自己の姿。そういう結果が予想されても、自分の信じる道を突き進むのだ、というのが先行する「道程」ですが、それとても「こんな自分にはとてつもなく困難な道になるだろう」という、一種の自虐が見て取れます。そして、そうした生活が智恵子の心の病を引き起こす一つの要因となったという「ばけもの屋敷」。

どうも光太郎というと、脳天気な人生賛歌のみの詩人、というイメージを持たれているような気がしますが、そんな単純なものではない、というところを声を大にして言いたいですね。

閑話休題、間島さん。かつてニューヨークご在住の経験がおありだそうで、光太郎が暮らしていた屋根裏部屋のアパートのあった場所(現在はリンカーンセンターという施設だそうで)、光太郎が通ったアート・ステューデント・リーグ(おそらく当時のままの建物)などの画像をレジュメに入れて下さっていました。



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ロンドンパリもそうですが、いずれ欧米各地の光太郎の足跡を追う旅など、してみたいものです。


続いてのご発表は、佛教大学総合研究所特別研究員の田所弘基氏。発表題は「「夏の夜の食慾」解釈」。

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「夏の夜の食慾」は、大正元年(1001912)の比較的長い詩。この時期の光太郎詩には、類例が他にもありますが、ある種の象徴として、さまざまな事物が一見脈絡もなく盛り込まれているものがあります。そこに脈絡を見いだし、どういったものの象徴なのかを細かく読み解こうという試みでした。つい読み過ごしてしまいがちな詩語の一つ一つの裏側に、なるほど、こういう背景があるのかと、興味深く拝聴しました。

田所氏曰く、食慾などの生理的な欲求のおもむくままの生活を一旦は封印し、「魂の国」を希求する態度が見て取れるとのこと。しかし、もう少し後になると肉体が欲する生理的現象を肯定的に受け入れていくようになるわけで、当方、どうしてもそこに智恵子との恋愛の成就が深く関係しているように思えます。

ちょうどこのテーマで論文を書かれているところだそうで、ご勤務先の研究紀要等に発表されるのでしょう。どんな論文になるか、楽しみです。


ところで、当会顧問の北川太一先生、おみ足の調子がよろしくないとのことで、外出は控えられており、不参加。残念でした。で、参加者はご発表のお二人を含めて10名でした。まぁ、もっと少ない年もあったのですが、さらに多くの皆さんのご参加を期待したいところです。何か良い方策はないものでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

生れに由るほど動かし難い強さはないのである。

散文「臼井喜之介詩集「望南記」序」より 昭和19年(1944) 光太郎63歳

臼井喜之介は、大正2年(1913)生まれの詩人。その故郷・京都に生まれ育ち、そのことが「由緒の遠い旧都の地に人となつた同君の事とて、そのゆかしい雰囲気に纏綿する不可言の詩情が極めて自然にその詩に含蓄せられ」(上記同文)ているというのです。

遠く明治期に、日本初の印象派宣言とも評される「緑色の太陽」で、「僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。」と書いた、生まれ育った環境に対する、こちらは肯定的な言ですね。