智恵子の故郷・福島二本松から光太郎智恵子がらみの報道を2件。

まずは11月13日(日)に行われた、朗読劇「智恵子抄」二本松公演の模様を伝えた記事。『福島民報』さんから。

智恵子と光太郎の夫婦愛、朗読劇で熱演 俳優一色さんら 福島県二本松市で公演

  詩集「智恵子抄」で知られる詩人で彫刻家の高村光太郎と芸術家の智恵子の夫婦愛を描く朗読劇「智恵子抄」は13日、福島県二本松市安達文化ホールで上演された。葛藤に苦しみながらも光太郎への愛を貫く智恵子の魂を表現する一色采子さんらの熱演に、大きな拍手がわいた。
 昨年に続き、智恵子の古里で催す2度目の公演。二本松市出身の日本画家・大山忠作さんの長女で俳優の一色さんが再び智恵子を演じ、光太郎役の松村雄基さんら新たなキャストと共に臨んだ。
 芸術の探究や生活の困窮の中で苦悩を深め「二本松に行きたい」と願う智恵子の心、美のきらめきを切り絵に表す様子、妻を思い続ける光太郎の姿を「あどけない話」「樹下の二人」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」などの朗読と演技、音楽でつづった。多くのファンや文学愛好者らが詰め掛け、痛切な愛の世界に見入った。
 新派アトリエの会の主催・製作、松竹、二本松市教委の協力。アフタートークでは一色さんらが舞台のエピソードや二本松の印象などを披露した。
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続いて、『朝日新聞』さん。十日ほど前の夕刊に載った記事です。少し長いのですが、全文を。

「ほんとの空」の下の若者たち 農業と発電両立し福島産守る

 その取材に向かう前、私は11年前の取材ノートを読み返した。
 「2011年10月12日」のページを探す。東京電力福島第一原発の事故が起きて初めて、福島県庁が県産米の放射能検査の結果を発表した日だ。
 安全基準ぎりぎりのコメもあったが、基準はすべてクリアした。次のやり取りが残っていた。
 佐藤雄平知事(当時)「農水省が決めた倍の地点で調査した。安全性が確認され、安堵(あんど)している」
 私「安全宣言ですか?」
 知事「まあ、安全宣言といえば、安全宣言だなあ」
 その後、基準を超えたコメが、県内の複数の田んぼで見つかった。地区単位でコメの出荷が制限される。今のような風評被害ではなく、「実害」だ。将来を絶望し、自ら命を絶つ農家もいた。

 被害を受けた地域の一つが、福島県の北中部にある二本松市だった。原発から50㌔余り離れていても、放射線量は高かった。
 10月中旬、その二本松を久しぶりに訪れた。
 自然豊かな二本松を代表する「安達太良山」。「東京には空が無い」で有名な詩集「智恵子抄」で、作者の高村光太郎の妻智恵子の話として、この山の上を「ほんとの空」とつづった。
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 その空の下では今、若者たちが発電と農業を両立させる「ソーラーシェアリング」(営農型太陽光発電)を手がけている。農作物を育てながら同じ土地で発電して電気を売り、収入を増やす手法だ。
 長さ70㍍の「壁」が3列半。壁の材料は230枚の太陽光パネルだ。耕作放棄地だった農地は今年3月、日本初という「垂直型ソーラーの農場」に変わった。
 運営は「二本松ご当地エネルギーをみんなで考える株式会社」(略称ゴチカン)。社長兼社員の近藤恵(けい)さん(42)を、自然エネルギーで著名な飯田哲也さんや二本松市、地元農家らが支える。
 パネルの壁と壁は10㍍空いており、トラクターが余裕で通れる。50㌔㍗の電気をつくりながら地面では牧草を育てている。
 「実験ですか?」と私が尋ねると、近藤さんは「経済的になりたっているので、すでに実用です」と胸を張った。
 「垂直に立てても受ける光のロスはわずかです」。土地を効率的に利用するなら、斜めに置くよりも、垂直のほうがよさそうだ。
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 東京都出身の近藤さんは、筑波大で農林業を学び、一般社団法人「二本松有機農業研究会」で修行を積んだ。原発事故の前まで、農薬や化学肥料をほとんど使わない有機農法で、コメや野菜を得意客に直接販売していた。
 11年もコメは作った。「お客さんは『近藤さんのコメだから安心です』と言ってくれたが、心苦しかった。基準内の玄米からは放射能が多少検出されても、白米にするとゼロになることや、うちの子どもにも食べさせていると添え書きを入れて、コメを送りました」
 農業を諦め、二本松の農協に勤めた。与えられた仕事は、東電に損害賠償請求する農家の手伝いだった。知らない農家から「お前は国側か!」と怒鳴られた。
 さらに心が痛む仕事が待っていた。収穫されたものの、出荷停止になったコメの処分だ。
 「米袋には顔見知りの農家の名前も書いてあって……。捨てるのが、つらかったですよ」
 農業から話はそれるが、二本松市は原発周辺の避難者を大量に受け入れた。市民にはさらに遠くへ避難する人もいた。12年には市内で放射能に汚染されたマンションが見つかった。原発周辺の砕石が土台に使われていたためだった。
 私は当時の混乱ぶりを取材していた。なので、二本松の印象は極めて暗い。当時のノートを見返したのも、それを忘れちゃいけないと思ったからだ。

 近藤さんは農協を2年半で辞めた。有機農業研究会に「エネルギー部会」をつくり、再生可能エネルギーと農業の両立を学び始める。避難指示が出た福島県飯舘村で営農型太陽光発電が先行していると知るや、事業主体の飯舘電力に頼み働かせてもらった。
 垂直ソーラーがある牧草地から車で約10分、6㌶の畑の地上3㍍に、9500枚のパネルが並ぶ。
 頭上にはブドウ棚の鉄線が張り巡らされている。近藤さんと働く塚田晴(はる)さん(20)、菅野雄貴さん(38)が4ヶ月かけ作業した。4月にはシャインマスカットなど100本のブドウの苗を植えた。
 パネル下でも通常の75%の日照を確保できる。塚田さんは「再来年には味見ができるくらいに成長しているでしょう」と話す。
 塚田さんは原発事故のとき、小学3年だった。それまでは家族5人で、近藤さんのいた有機農業研究会の有機野菜を食べ、稲刈り体験にも参加していた。
 11年3月17日。母の実家の神戸に避難する。二本松からタクシーに乗り、新幹線が通っていた栃木県のJR那須塩原駅へ向かった。父は運転手に心付けも含め3万円を渡した。
 以来、塚田家ではこの日を「避難の日」とし、毎年3万円で外食する。事故の恐怖や故郷を去る悔しさを忘れないためだ。
 塚田さんが小学5年のとき、研究会の当時の代表、大内信一さん(81)が、福島の農家の現状を話すため、消費者団体の招きで大阪に講演にきた。
 母と聴きに行った。会場から大内さんに厳しい質問が飛んだ。「福島産は危険だ」「子どもに食べさせていいのか」――。
 聞いていて、ムッとした。「何だよ。消費者って、こんなに簡単に生産者から離れていくんだ」
 毎年お盆に福島へ帰省すると、二本松の大内さんの田んぼをのぞきにいくようになっていた。
 高校は三重県の農業学校に進み、果樹を専攻した。3年生のとき、二本松から近藤さんがスカウトにきた。太陽光発電の下で、専門をいかすチャンスだった。
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 塚田さんは自分のためにブドウ栽培を用意してくれたと思っている。が、近藤さんの本当の狙いは違ったようだ。
 「『シャインマスカットォ~』とか『ソーラーシェアリングゥ~』とか、ほかとあまりくらべるものがない果物や農法で攻めないと、放射能の問題は突き抜けられないと思ったのです」
 消費者庁の調査では、原発事故後、福島のコメや野菜を敬遠し続ける消費者は今も1割弱いる。
 生産する側も、作付けなどが一時制限された二本松や福島、伊達、相馬の4市では、計3割の田畑が営農を休止したままだ。
 ありきたりの品種や手法では新たな道はひらけない。本当の空の下、そんな切実さが、近藤さんたちの闘いから伝わった。

「再稼働ありき」で、こうした再生可能エネルギーの普及を妨害すらしているのではないかと思われる「原発村」の魑魅魍魎どもは、こうした記事を「くだらん」と一蹴するのではないでしょうか。「(笑)」とつけたいところですが、「(怒)」ですね。

【折々のことば・光太郎】

平熱、少〻息切れする、シヤベリ過ぎらし、


昭和30年(1955)1月2日の日記より 光太郎73歳

この日は、当会の祖・草野心平をはじめ、年始の挨拶的な訪問者が多く、会話が弾んだようです。それはそれで嬉しかったのでしょうが、肺結核にはあまりよろしくなかったようで……。