まずは10月30日(火)、NHK秋田放送局さん発のローカルニュース。あきた文学資料館さんで開催中の「特別展示 明治150年秋田を訪れた文人たち」を紹介するものです。
秋田ゆかりの文人紹介の展示
秋田市の「あきた文学資料館」には、明治から昭和にかけて、秋田を訪れた9人の文人のエピソードを紹介するパネルや著書などが展示されています。秋田には豊かな自然や文化を作品に描こうと訪れる文人も多かったということで、歌人・若山牧水のパネルでは、「名に高き 秋田美人ぞ これ見よと 居ならぶ見れば 由々しかりけり」と、秋田の女性の美しさを詠んだ歌などが紹介されています。
また、秋田出身の文化人と親交のあった人も多く、詩人で彫刻家の高村光太郎が、小坂町出身の出版人に宛てた67通の手紙も、期間限定で展示されています。
小坂町に寄贈された光太郎の手紙がすべて展示されるのは、今回が初めてで、岩手県に疎開していたときに、空襲に遭ったことなどが書かれ、当時の生活や人間関係の交流の様子がうかがえます。
あきた文学資料館の京極雅幸副館長は、「文人たちが、秋田で何を見て何を感じたかを知ることで、秋田の魅力を感じてほしい」と話していました。
展示会は12月27日まで開かれていて、高村光太郎の手紙は11月4日まで展示されています。
東北のローカルニュースといえば、過日ご紹介した、十和田湖観光交流センター「ぷらっと」の光太郎コーナーリニューアルに関し、RAB青森放送さんのニュースで報じられたそうです。弘前在住の大学時代の友人が、LINEで画像を送ってくれました。何も連絡しておかなかったのですが、当方が映っていることに気づいて撮ってくれたとのこと。
同じ件を報じた、『デーリー東北』さんの記事がこちら。
高村光太郎の逸話紹介 関係者がトークセッション
十和田湖観光交流センター「ぷらっと」2階展示スペースにある「高村光太郎コーナー」が28日、リニューアルオープンした。同日、セレモニーとイベントが行われ、同湖のシンボルである「乙女の像」を制作し、彫刻家や詩人として活躍した高村について、関係者がトークセッションを通じ人柄や逸話を紹介した。 同コーナーは、新たにブロンズ製の高村の胸像と、乙女の像の制作で使用された回転台を展示し、解説文のパネルを設置した。 胸像は、戦後に岩手県花巻市で生活していた高村をモチーフに、彫刻家の田村進さん(青森市)が制作。旧日本軍の高射砲の台座として使用した物を転用した回転台は、彫刻家の北村洋文さん(東京)が所有していた。 胸像と回転台はそれぞれ十和田市に寄贈され、同日のセレモニーで小山田久市長が、田村さんと北村さんに感謝状を贈呈した。 続いてトークセッションでは、田村さんと北村さん、リニューアルを監修した高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会代表の小山弘明さん(千葉県)の3人がマイクを握った。 北村さんは「野辺地町出身で、乙女の像の制作に助手として携わった小坂圭二先生から、『使わないと意味がない』と言われて頂いた」と回転台を所有した経緯を説明。田村さんは「(乙女の像の)除幕を記念した高村の講演会があり、待ち伏せしてサインをもらおうと思った。背は大きく声は割と低かった」と振り返った。 小山さんは「高村の生前最後の大作で半年ほどの速いスピードで完成した。十和田湖のシンボルの一つとして愛し続けてほしい」と乙女の像をアピールした。光太郎、そして智恵子が愛した「みちのく」の地での、さまざまな顕彰活動。今後もいろいろと続きます。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
私は彫刻家だ。彫刻の悦は、黙つてすぱりと、生きてゐる内天の自然を、まるごとのまま、幽、顕のあはひからつかみ出すところにある。
散文「陶山篤太郎詩集「銅牌」序」より 大正13年(1924) 光太郎42歳
「乙女の像」も、そういう見地から造られたのでしょう。