まず、10月20日(土)の『日本経済新聞』さん。智恵子終焉の地・品川区のゼームス坂病院跡についてです。
今昔まち話 ゼームス坂(東京・品川) 詩人も通ったなだらかな坂
東京都品川区の大井町駅から3分も歩けば、風変わりな名称の坂道にたどり着く。約400メートル続く2車線の両側には新しい高級マンションから昭和時代に竣工したビンテージ物件などが立ち並ぶ。多くがその名を冠するほど、人気の住宅地に浸透している。ところで、ゼームスって誰?幕末に来日し、明治期にこの地に邸宅を構えた英国人のJ・M・ゼームス(スペルはJames)。船長で日本海軍の創設に関わり、後に勲章が贈られた人物だ。通りの名となった理由は、私財を投じて急な坂道を緩やかに整備したため、と伝えられている。
「もともと浅間坂と呼ばれていた今のゼームス坂を明治時代に改修したとする文献は見つけられない」と話すのは区立品川歴史館の学芸員を長年務めた「品川郷土の会」の会長、坂本道夫さん(68)だ。坂の脇道を入ったところに邸宅があったことから、この脇道を整備したのではないかと推測している。
坂本さんが国立公文書館アジア歴史資料センターで調べたところ、ゼームスは海外情勢を報告した報酬として海軍省から大金を得ていた。坂の近くにあった青果店の男性(故人)からは「ゼームスさんは近所の子供にお小遣いを与えており、自分ももらったことがある」との証言も得ていることから、坂本さんは「資産家で住民から親しまれていたことは間違いないだろう」とみる。
脇道を挟みゼームス邸跡地の反対側は作家の高村光太郎の妻、智恵子が1938年に亡くなるまで入院していたゼームス坂病院があった地だ。郷土の会は95年、光太郎が妻の最期を詠んだ「レモン哀歌」を黒御影石に刻んだ碑を建てた。
「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとつた一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛(か)んだ」
深い悲しみのなか、優しさに満ちた光太郎の詩は今も多くの人の心を捉えている。智恵子の命日である10月5日、今年も誰かがレモンを詩碑の前に置いていた。人気の住宅街で脇道に潜むストーリーに触れた気がした。
続いて、10月22日(月)、『福島民報』さん。
西会津で探究心育む 小学生「ほんとの空プログラム」
自然の中で子どもたちの好奇心や探究心を育む「ふくしま ほんとの空プログラム-地域の謎を解明せよ!」は二十一日、福島県西会津町奥川で催された。小学一年生から五年生九人が参加した。にしあいづ自遊学校(旧奥川保育所)をスタート・ゴールに、ヒントが記された地図を頼りに約二キロのコースに設けられたチェックポイント八カ所を巡った。途中でバッタやカマキリなどの昆虫採集を楽しむ姿も見られた。
昼食ではピザ作りに挑戦。ドラム缶を加工した特製オーブンで焼き上げた熱々のピザを青空の下で味わった。
プログラムは福島民報社の主催。オーデン、花王、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、日本シビックコンサルタント、日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の協賛。NPO法人寺子屋方丈舎の実施運営。全四回あり西会津町は第三弾。
光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語、もはや福島の復興の合い言葉として、一人歩きの感がありますね。
さらに昨日の『東奥日報』さん。過日ご紹介した十和田湖観光交流センターぷらっと 高村光太郎コーナー リニューアルオープンセレモニーなどについてです。
十和田湖畔休屋「ぷらっと」 高村光太郎コーナー改装 28日式典 胸像展示やガイドツアー
十和田市は28日、十和田湖畔休屋地区の十和田湖観光交流センター「ぷらっと」2階で、高村光太郎コーナーのリニューアルオープンを記念した式典を開く。コーナーは青森市の彫刻家・田村進さんが制作し昨年市に寄贈した胸像「光太郎山居」を回転台とパネル附きで展示。28日は式典後に、田村さんらによるトークセッション、高村が制作した「乙女の像」を巡るガイドツアーも行う。いずれも参加無料。 式典は午前10時から。田村さんのほか、解説パネルなどを監修した小山弘明さん(高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会代表)、回転台を寄付した北村洋文さん(むつ市)らが出席。
午前10時20分から同11時40分まで、田村さんら3氏が高村にとって「最後の大作」となった乙女の像について語りあうトークセッションを行う。
午前11時50分からは、地域おこし協力隊・山下晃平さんによるガイドツアー。かつて東北有数の山岳霊場として信仰を集めた十和田湖に、弘前大学の斉藤利男名誉教授が歴史的側面からアプローチした本紙連載を基にした単行本「霊山十和田」で紹介されたスポットを巡り、乙女の像をバックに記念撮影を行う。いずれも申し込み不要。問い合わせは十和田市観光推進課(電話0176 51 6771)へ。
それから、10月22日(月)には、『毎日新聞』さんの岩手版に「7年間過ごした花巻、昭和20年代ジオラマで 記念館で企画展 来月19日まで」という記事が出たようですが、こちらは共同通信さんの配信で、同一の記事が10月5日(金)の『日本経済新聞』さん他にも掲載されました。
最後に、今朝の『朝日新聞』さん。重松清氏による連載小説「ひこばえ」の一節。
(略)
壁際の本棚ではなくキャスター付きのブックラックが、特集のコーナーになっていた。小説やエッセイ、児童書や絵本に加え、写真集などのビジュアル本も含めて二十冊ほどのラインナップだった。高村光太郎の『智恵子抄』や城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』といった、私でも題名ぐらいは知っている本もあれば、初めて目にした著者の本もある。
川上和生氏による挿画がいい感じです。『智恵子抄』、本題には関係ないのですが「ごくごく当たり前の本」の例として使われています。
しかし、『智恵子抄』、「ごくごく当たり前の本」でなくなるようなことがあってはいけないな、と、改めて感じました。
【折々のことば・光太郎】
鷗外先生の「花子」はまことに簡にして要を得た小説であつて、ロダンの風貌性格習性がいきいきと描かれて居る。巧にロダンの言説まで取り入れられ、又久保田医学博士といふ人の行動をかりて、ダンテからボオドレエルに至るロダンの思想上の経歴まで暗示されてゐる。
散文「鷗外先生の「花子」」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳
森鷗外の「花子」(明治43年=1910)は、確認できている限り唯一、ロダンの彫刻モデルを務めた日本人女優・花子とロダンの関わりを描いた短編小説です。