テレビ番組の放映情報、2件です。それぞれ、ぜひご覧下さい。
びじゅチューン! 「指揮者が手」
NHK Eテレ 2018年10月31日(水) 19時50分~19時55分/ 11月5日(月) 5:55~6:00/24:50~24:55
古今東西の美術作品を井上涼のユニークな発想でうたとアニメーションに。
今回は、高村光太郎の彫刻「手」(東京国立近代美術館所蔵)。この彫刻は、指をやんわり曲げていたり親指が反り返っていたりと、細かいニュアンスを伝えようとしているみたいに見える。これは、オーケストラを動かす指揮者なのかもしれない!
「て」という音を効果的に取り入れた歌詞で、左手一本で音楽を自由にあやつる孤高の指揮者を歌う。
出演 井上涼 声 ジョリー・ラジャーズ
古今東西の美術作品を脱力系のアニメーションと唄でいじる5分間番組です。平成27年(2015)には、光太郎が敬愛したロダンの「地獄の門」をモチーフにした「ランチは地獄の門の奥に」が放映されました。
公式サイトでは過去の放映作品の唄の部分がすべて見られますが、どれもこれも笑えます。光太郎の「手」が、どう料理されるか楽しみです。
もう1件。直接光太郎には関わりませんが。
今夜の主人公は、情熱の歌人・与謝野晶子と柳原白蓮。連続テレビ小説『花子とアン』で脚光を浴びた白蓮は、大正時代、意に染まぬ夫への「絶縁状」を新聞紙上に発表して駆け落ちを決行、世間の常識に立ち向かう。今年生誕140年を迎える晶子も、女性の情念を大胆にうたった作品を世に問い、さらに自立した女の生き方を実践した。新発見の歌や未公開の動画もまじえ、思うままに恋をし、力強く生きた、2人のりりしい姿を描く。
出演 原沙知絵 袴田吉彦 キャスター 井上あさひ
光太郎の師・与謝野晶子が取り上げられます。
晶子といえば、先週土曜日(10/20)、NHK Eテレさんで放映された「第48回 NHK講談大会」で、神田陽子さんが「炎の歌人 与謝野晶子の生涯」を演じられました。
今年6月には、チバテレさん他で放映された「浅草お茶の間寄席」で、同じ神田一門の神田京子さんがこれを演じられました。定番の演目なのですね。
先週のNHKさんといえば、BSプレミアムさんで放映されている「にっぽん縦断 こころ旅」。俳優の火野正平さんが自転車で日本各地を廻る番組です。19日(金)の放映では、花巻を訪れられました。
その中で、光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の法音山昌歓寺さんが大きく取り上げられました。光太郎もたびたび訪れた古刹です。光太郎は観音像を彫る依頼を受けながら果たせず、その歿後、光太郎に代わって、交流のあった彫刻家・森大造が代作しました。
公式サイトから。
東京・府中の李 淳子さんのご両親は、昭和の初め頃、朝鮮半島から日本に渡り東京に住んでいました。しかし戦争が激しくなり、家族全員で疎開したのが岩手県花巻市。淳子さんは地元の小学校に通い、友だちと遊んだのが昌歓寺です。戦後もしばらく花巻で暮らし、その後両親は朝鮮半島へ戻り、両親と会うことができなかったと言います。家族・兄弟の思い出の地、花巻。そのランドマークともいえるのが昌歓寺。そこが淳子さんの「こころの風景」になりました。再訪したくとも高齢のため行けないという淳子さんのために、正平さんは花巻城址を出発して秋色に染まった北上盆地を走ります。
この番組は、火野さんが、視聴者の方から寄せられた「ずっと残したいふるさとの風景」に関するお手紙で紹介された場所に行く、というコンセプトで、番組の最初と最後に火野さんがお手紙を朗読なさいます。今回のお手紙がこちら。光太郎と同じ時期に旧太田村に疎開されていた東京在住の方から。光太郎にも触れて下さっています。
正平さん、おはようございます。番組をいつも楽しみにしています。
私の心に残る風景は岩手県花巻市太田にある昌歓寺(しょうかんじ)です。
昭和のはじめの頃、朝鮮半島から日本に移り住んだ両親は東京に居を構え、私たち子供8人をもうけ大家族で暮らしていましたが 戦争が激しくなるとともに家族全員を連れ岩手県花巻市に疎開しました。私が小学生の頃でした。
戦争が終わった後もしばらく当地にとどまり、私は高校時代までを花巻で育ち過ごしました。
勝手のわからない土地で8人の子供たちを養うのでさえ大変なのに ましてや戦時中皆が窮乏した時代です、両親の苦労はいかばかりであったことかと思います。
でも、家族思いの両親のもとで兄弟仲良く過ごし、また地元の学校でできた友達たちとも仲良くなり、戦争を避けるための疎開先とはいえ、岩手時代のことは楽しい思い出ばかりです。
その当時の思い出の場所が昌歓寺です。
私たちが通った太田小学校の近くにあり、友達たちと立ち寄っておしゃべりに花を咲かせたりしました。
また、詩人の高村光太郎さんも当時こちらに疎開されており、高村さんを慕って訪ねてくる多くの学生が昌歓寺を宿にして滞在していました。
歴史の古いお寺ですが、今で言えば太田のランドマークのような場所であったと言えるかもしれません。
戦後 世の中も落ち着きを取り戻し、私たちの家族も東京に戻りましたが、私が主人と結婚した年に、両親は隣国でのままならぬ暮らしに終止符を打とうと、朝鮮半島に戻りました。
必ずしも容易でない時代環境のもとで、その後 両親と存命中に再会することは叶いませんでした。まだ二十代で両親と別れることになった私には、花巻は両親や兄弟との思い出の土地です。
仲良く温かった家族の思い出、そしてその土地の象徴であるような昌歓寺。
私はお陰様で子供たちに恵まれ、今年90歳を迎える主人と平穏な日々を送っています。ただ遠出は難しい状況です。
どうか正平さん、私の家族の思い出の土地、花巻市太田と昌歓寺に訪ねていって頂ければ、心から嬉しく思います。
宜しくお願いします。
私の心に残る風景は岩手県花巻市太田にある昌歓寺(しょうかんじ)です。
昭和のはじめの頃、朝鮮半島から日本に移り住んだ両親は東京に居を構え、私たち子供8人をもうけ大家族で暮らしていましたが 戦争が激しくなるとともに家族全員を連れ岩手県花巻市に疎開しました。私が小学生の頃でした。
戦争が終わった後もしばらく当地にとどまり、私は高校時代までを花巻で育ち過ごしました。
勝手のわからない土地で8人の子供たちを養うのでさえ大変なのに ましてや戦時中皆が窮乏した時代です、両親の苦労はいかばかりであったことかと思います。
でも、家族思いの両親のもとで兄弟仲良く過ごし、また地元の学校でできた友達たちとも仲良くなり、戦争を避けるための疎開先とはいえ、岩手時代のことは楽しい思い出ばかりです。
その当時の思い出の場所が昌歓寺です。
私たちが通った太田小学校の近くにあり、友達たちと立ち寄っておしゃべりに花を咲かせたりしました。
また、詩人の高村光太郎さんも当時こちらに疎開されており、高村さんを慕って訪ねてくる多くの学生が昌歓寺を宿にして滞在していました。
歴史の古いお寺ですが、今で言えば太田のランドマークのような場所であったと言えるかもしれません。
戦後 世の中も落ち着きを取り戻し、私たちの家族も東京に戻りましたが、私が主人と結婚した年に、両親は隣国でのままならぬ暮らしに終止符を打とうと、朝鮮半島に戻りました。
必ずしも容易でない時代環境のもとで、その後 両親と存命中に再会することは叶いませんでした。まだ二十代で両親と別れることになった私には、花巻は両親や兄弟との思い出の土地です。
仲良く温かった家族の思い出、そしてその土地の象徴であるような昌歓寺。
私はお陰様で子供たちに恵まれ、今年90歳を迎える主人と平穏な日々を送っています。ただ遠出は難しい状況です。
どうか正平さん、私の家族の思い出の土地、花巻市太田と昌歓寺に訪ねていって頂ければ、心から嬉しく思います。
宜しくお願いします。
花巻市街を出発された火野さん、リンゴ畑やお手紙の主が通われていた太田小学校などを経由し、昌歓寺さんを目指します。
その後、もう少し足を伸ばせば光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)なのですが、そちらには行かれなかったようで、残念でした。
「第48回 NHK講談大会」ともども再放送を期待しますし、未公開映像の特別編なども時折放映されていますので、そうした中で光太郎ゆかりの地が取り上げられてほしいものです。
さて、「びじゅチューン」、「歴史秘話ヒストリア」、それぞれご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
馴れきれないものは失策する。馴れきれるものは瞞着するのである。
散文「豊島与志雄氏著「猫性語録」」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳
猫が持つ肉食獣としての野生の夢想に自己を仮託した、豊島与志雄の随筆集『猫性語録』評から。自身も連作詩「猛獣篇」を書き、荒ぶる野生の魂を自己内部に見いだしていた光太郎、共感を持って同書を捉えています。