昨日は、光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館・碌山美術館さんの開館60周年記念行事にお招きいただき、信州安曇野に行っておりました。
記念行事は、近くの穂高神社さんで開催されましたが、その前に同館に参りまして、展示を拝見。「開館60周年記念 秋季企画展 荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-」というタイトルでの展示となっています。
光太郎彫刻作品も7点、並んでいました。
そちらを拝見後、穂高神社さんへ。
参拝後、境内の一角にある参集殿という施設に。こちらで記念行事が開催されました。
まずは建築家の藤森照信氏による記念講演「碌山美術館の建築と建築家について」。非常に興味深い内容でした。
当方、寡聞にして存じませんでしたが、碌山美術館さんの本館(碌山館)は、スペイン・バルセロナのサグラダファミリアで有名なガウディを日本に紹介した、今井兼次という建築家の設計だそうで、様式的にはロマネスク様式建築の範疇に入るとのこと。
ギリシャ建築を範とする重厚で権威的な石造りの古典主義建築に対し、教会などに多用されたバロック様式、さらにそれより古い様式がロマネスク建築。11~12世紀頃にやはり教会などを造る際に流行った様式で、手作り感溢れる素朴なスタイルです。当時の農民が、畑から出てきた石などを持ち寄り、手作業で積んだとのこと。
碌山館は石ではなく焼過煉瓦ですが、中世ヨーロッパと同様に、隣接する穂高中学校の生徒などが煉瓦を積む作業を手伝ったりしたそうで、教会風の外観といい、まさにロマネスクの精神を顕現した建物と言えるそうです。
講演の後は、同じ会場で記念祝賀会。
同館代表理事にして、元館長の所賛太氏のごあいさつ、現荻原家ご当主の荻原義重氏をはじめ、来賓の方々の祝辞。
アトラクションとして、松本ご在住の桂聰子さんによるフルート演奏。
その後、乾杯、そして祝宴。美味しい料理を頂きました。
最後は、万歳三唱。
今でこそ、個人美術館は当たり前のように全国に存在しますが、同館の開館当時はその嚆矢といえるものだったわけで、しかも、以来60年間、安曇野地域の文化推進に果たしてきた役割も非常に大きかったことと思われます。
同館建設に骨折った、彫刻家の笹村草家人、石井鶴三らは、晩年の光太郎に何かと相談を持ちかけ、光太郎も同館開館を心待ちにしていましたが、その日を待つことなく他界。生前の光太郎が同館を訪れることができたら、さぞや喜んだだろう、などと思いました。
祝賀会参加の引き出物的に、またまた書籍を頂いてしまいました。『荻原守衛日記・論説集』。題名の通り、現存する守衛の日記と、雑誌等に発表した美術評論などの集成です。
A4版ハードカバー、571頁という厚冊で、ほぼオールカラー。日記の部分は、日記そのものの画像が全頁掲載され、もちろん活字にもなっており、さらに詳細な注釈も。舌を巻くようなものすごい資料です。
ただ、守衛帰国後の日記は相馬黒光によって守衛没後に焼かれてしまって現存しませんし、留学中の日記もすべてが残っているわけではなく、残念ながら日記の部分には光太郎は登場しません。しかし、索引を見た限りでは「論説」の部分に、光太郎、そして光雲の名が頻出しているようで、この後、熟読いたします。
今後とも、同館が末永く愛され続けることを願ってやみません。紅葉も美しい季節、皆様も是非足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
ブラボオ! と叫びたい事がある。最近、長沼重隆訳ホヰツトマンの「草の葉」の出来た事だ。
散文「ホヰツトマンの「草の葉」が出た」より
昭和4年(1929) 光太郎47歳
「ホヰツトマン」は、光太郎が私淑した19世紀アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン。光太郎はホイットマンの日記を翻訳し、『白樺』などに寄稿した他、『自選日記』(大正10年=1921)として刊行もしました。
「草の葉」は1855年に刊行されたホイットマンの代表作で、それまでに富田砕花、有島武郎らによって断片的に翻訳されていましたが、あくまで断片的なものでしかありませんでした。それが、英文学者・長沼重隆により、ほぼ完全な訳が行われたことを、光太郎は「ブラボオ!」と言っているわけです。これを機に長沼と光太郎は交流を持つことになったようです。
ちなみに当方、上記『荻原守衛日記・論説集』の刊行に「ブラボオ!」と叫びたくなりました。病のため任期半ばで退任なさった前碌山美術館長・五十嵐久雄氏のご功績大なりと承り、昨日、車椅子ながら祝賀会にご参加の五十嵐氏に久々にお目に掛かることもでき、望外の喜びでした。