まずは今月9日の『河北新報』さん。宮城県女川町の光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。 

<東京五輪>海外メディア、宮城の被災地視察 復興状況発信

 2020年の東京五輪・パラリンピックに向けて東日本大震災の被災地の復興状況を世界に発信しようと、東京都は8日、海外メディア向けに宮城県女川町や東松島市を巡るツアーを開催した。フランスやインドなど13カ国の報道関係者24人が参加した。
 女川町のまちなか交流館では、須田善明町長が復興の歩みを説明。サッカーチーム「コバルトーレ女川」の選手らや、五輪・パラリンピックのポスター作品コンテストで金賞を受賞した女川小6年鈴木御代(みだい)さん(11)が20年大会やスポーツへの思いを語った。一行は町中心部の商業エリアや、女川中に建つ「いのちの石碑」なども見学した。
 シンガポールを拠点に働くスティーブン・ムーラさん(52)は「震災当時の出来事は今も女川の人々の心に鮮明に残っていると感じた。震災の1年後に被災地を訪れたが、復興が進む様子を見られてよかった」と話した。
 東松島市宮野森小では、08年の北京大会ソフトボールに出場した馬渕智子さんによる授業を取材した。9日は五輪出場経験者らが参加する「オリンピックデー・フェスタ」がある福島県昭和村に足を運ぶ。

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今年、JFLに昇格したコバルトーレ女川の千葉洸星選手は女川町出身。「いのちの石碑」建立に拘わってきたメンバーの一人なのですね。


続いて『朝日新聞』さん。14日の東北版です。 

(東北細見)智恵子記念館 福島・二本松市 夫への愛「紙絵」は芸術に /東北・共通

◆みちのくお出かけ  9月に入って雨が続き、安達太良山の上の「ほんとの空」は厚い雲の向こうだった。振り返ると家並みの向こうに阿武隈川の水面が光った。
 1920(大正9)年春、詩人で彫刻家の高村光太郎は妻の智恵子の故郷・福島県二本松市油井を訪ねた。父の三回忌で滞在中の智恵子は喜び、生家の裏の鞍石(くらいし)山からのパノラマを二人で眺めた、と後に光太郎は振り返っている(「智恵子回想」など)。
 同山を整備した智恵子の杜(もり)公園の展望台から下ること約20分。生家の造り酒屋に併設する智恵子記念館に着いた。心を病んだ智恵子は晩年、病室で切り絵細工の「紙絵」制作に没頭した。その日に見た物を手当たり次第に題材にし、包装紙や色紙を切り抜いた。その数、肺結核で亡くなる約2年の間に1千数百点。館内には約30点の複製が常設展示され、期間限定でオリジナルも展示される。
 「すべて智恵子の詩であり、抒情(じょじょう)であり、機知(きち)であり、生活記録であり、此世(このよ)への愛の表明である」。光太郎はそう評したが、少し捕捉が必要だろう。
 付き添いのめいの手記によると、智恵子は完成次第、作品を隠し、見舞いに訪れた夫にだけ見せたという。「病状が悪化し会話も成立しない中、眠っていた芸術的センスが紙絵に現れた」と担当の市文化課の服部正人さん(47)。唯一の理解者である夫にだけ向けられた愛の表明と伝わってくる。
 都内で活動する切り絵作家の福井利佐さん(43)は「まるで筆で描いたよう」と、下書きをせず一気にハサミで切った技法にも注目する。「切り絵が芸術として確立していない時代に独自の表現を見いだしていた」
 二本松市内などを会場にした「福島ビエンナーレ2018」で福井さんは来月中旬~11月下旬、智恵子の生家で作品を展示する。市内に唯一1軒残った正月飾りの切り紙細工の技法を福井さんが学び、智恵子の母校・油井小学校の児童たちに指導した作品と共に。
 女性の芸術家を目指した智恵子。その思いは地域の文化の継承も加え、受け継がれる。

<メモ>二本松市智恵子記念館・生家(水曜休館)へはJR安達駅から徒歩で約20分。東北道二本松インターから国道4号を経由して車で約10分。周辺には智恵子の祖父が奉公した造り酒屋跡、父母の出会いのきっかけとなった商店跡など「ゆかりの地」もあり、散策先として紹介されている。詩碑などのある「智恵子の杜(もり)公園」は記念館の背後の稲荷八幡神社から。展望台まで直接車で向かうルートもある。


というわけで、二本松の智恵子生家・記念館周辺を紹介して下さいました。

記事にある「福島ビエンナーレ2018」が既に始まっていますが、智恵子生家での福井利佐さんのインスタレーションは、10月13日からとなります。詳しくはまたのちほど。


【折々のことば・光太郎】

あまり明白すぎて人にまぶしがられてゐる太陽、あまり確かすぎて人に古臭がられてゐる大空、それを彼は敢然として書く。真理に対する良心の火を彼ほど命にかけて護持する者は偉大である。

散文「ロマン ロラン六十回の誕辰に」より
大正15年(1926) 光太郎44歳

「ジャン・クリストフ」や戯曲「リリユリ」の翻訳を光太郎が手がけた、ロマン・ロランの評です。光太郎自身への評としても当てはまりますね。