周辺人物との関わりから、光太郎について記述された新聞記事を2本。
まずは9月2日(日)の『秋田魁新報』さん。
ふるさと小紀行[小坂町・出版人・澤田伊四郎]「埋もれたもの」世に
小坂町立総合博物館郷土館に7月、新たな常設コーナーができた。ショーケースに並ぶのは、竹久夢二、高村光太郎、棟方志功といった文化人の作品集。同町出身で出版社「龍星閣」(東京都千代田区)を創業した澤田伊四郎(1904~88年)が、世に送り出した本の数々だ。地元の大地(だいぢ)地区を除き、町内で澤田のことを知る人はこれまでそう多くなかった。親交があった同郷の日本画家、福田豊四郎(1904~70年)と比べ、知名度には差がある。
注目されるきっかけは今年2月。澤田の長男で龍星閣現社長の大多郎さん(78)が前年、小坂町へ寄贈した膨大な資料の中から、高村に関する未公表資料が見つかった。
代表作「智恵子抄」の続編の出版に向け、澤田と交わした書簡34通。全集に収録されていない資料だった。高村は当初「これはまずものにならないと思います」と記したが、約1年後には「たのしい詩集になりそうでたのしみです」と書いており、出版を巡る心境の変化が読み取れる。
大多郎さんが寄贈した資料は、龍星閣の出版物やさまざまな文化人と交わした手紙などで、段ボールで13箱分に及んだ。
小坂町教育委員会の学芸員、安田隼人さん(35)は「たまたま最初に手を付けた高村の書簡から、未刊行資料が見つかった。この『龍星閣コレクション』は、すごいものなんじゃないかとの思いが強まった」と話す。
澤田は自身も詩などを創作し、学生時代から同人雑誌を手掛けてきた。1933(昭和8)年に龍星閣を創業。20代後半で編集・出版を専業とするようになった。
モットーは「有名でないもの、埋もれたもの、独自なものを掘り上げて、世に送る」。龍星閣の出版物は革張りや金箔(きんぱく)といった豪華な装丁が特徴で、澤田の本作りへの情熱、作者に対する敬意がにじむ。
憂いを帯びた美人画で知られる竹久夢二も、澤田が「掘り上げた」作家の一人だ。竹久の死後に資料収集に奔走し、10冊近い作品集を龍星閣から刊行した。安田さんは「現在に至る竹久夢二人気の中で、澤田が果たした功績は大きい」と指摘する。
66(昭和41)年の県広報誌に掲載された対談記事で、澤田はこう語っている。「30年たった後の世に読み返して、そこに新しい価値を発見できるといったようなもの、そして他の出版社で出せないようなものというのが、私の出版方針です」
くしくも逝去から30年。気骨の出版人の業績が、古里で再評価され始めた。
今年2月に企画展「平成29年度新収蔵資料展」が開催され、その展示品の一部が7月から常設展示となった、小坂町の総合博物館郷土館さんがらみで、同町出身の龍星閣主・澤田伊四郎の紹介です。光太郎代表作の一つ『智恵子抄』などの版元ということもあり、光太郎についても言及して下さいました。
続いて9月3日(月)の『東京新聞』さん東京都内版。
文豪の足跡記す 街歩き冊子発行 森鴎外記念会・倉本事務局長
文豪・森鴎外(1862~1922年)を研究している「森鴎外記念会」(事務局・文京区)が、鴎外ら文学者の軌跡をたどる街歩きの冊子を発行している。倉本幸弘事務局長(66)が執筆・編集を担い、これまで2冊を刊行、現在は3冊目を準備中だ。倉本さん独特の目線から街へと誘う。 (中村真暁)
二〇一六、一七年発行の二冊のコースは、いずれも鴎外が半生を過ごした「観潮楼(かんちょうろう)」(同区千駄木)跡に立つ区立森鴎外記念館が起点。一冊目の「観潮楼から芝、明舟町へ」は、鴎外が実際に歩いたと考えられる港区虎ノ門までの約六・五キロをたどる。続く「団子坂から谷中・上野へ」は、鴎外の小説「青年」の舞台となった上野や谷中(台東区)など、直径一キロほどのエリアを巡る。
地域ゆかりの文学作品の場面や文学者のエピソードが盛り込まれており、「団子坂-」では、夏目漱石(一八六七~一九一六年)の「三四郎」の主人公が団子坂(千駄木)を下って行くと説明。その様子は、鴎外の小説「団子坂(対話)」でも触れられていると紹介、小説の該当部分を引用して載せた。東京芸術大(台東区上野公園)を取り上げたページには、鴎外の講義を聴講した詩人の高村光太郎(一八八三~一九五六年)による回想を掲載している。
もともと、街歩きが好きな倉本さん。目的もなく歩いていると、目に留まった風景や建物から、文学作品などの知識が自然と頭に浮かんでくるという。
冊子はそんな情報が満載で、細かな地図をあえて載せず、倉本さんが見た物、感じたことを文章と写真で表現した。「歩き方を押し付けたくない。自分の感性を大事にしてほしい。歩いてみて、東京はこんなに面白く、美しいところだったんだと感じてもらえれば」と倉本さんは話す。
三冊目は、鴎外記念館から、奥浅草の台東区立一葉記念館に至るコースを予定している。シリーズのタイトルは「森鴎外記念会事務局長さんの散歩案内-東京は小さい、だから歩いてみよう-」。「観潮楼-」が十一ページ、コピー代として百五十円、「団子坂-」が十七ページ、百七十円。森鴎外記念館で扱っている。
近所に住み、美術学校での恩師でもあった鷗外。しかし、どうも若き光太郎、「権威」には反発したがる癖があったようで、偉そうな鷗外に親しめませんでした。大正に入ってからは、やはり権威的だった鷗外を揶揄し、「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、光太郎は鷗外宅に呼びつけられて叱責されたとのこと。鷗外はこの件を雑誌『帝国文学』に載った「観潮楼閑話」という文章に書いていますし、光太郎も後に高見順や川路柳虹との対談などで回想しています。何だか現代の若者がSNSに悪口を書き込んだとか書き込まないとかのトラブルの話のようです。さすがに暴力行為には発展しませんでしたが(笑)。
といって、光太郎は鷗外を嫌悪していたわけではなく、それなりに尊敬していましたし、鷗外は鷗外で、つっかかってくる光太郎を「仕方のないやつだ」と思いつつもかわいがっていた節があります。光太郎が明治末に徴兵検査を受けた際、身長180センチくらいの頑健な身体を持ちながら、徴兵免除となりました。理由は「咀嚼(そしゃく)に耐えず」。確かに光太郎、歯は悪かったのですが、それにしても物が噛めないというほどではありません。これはどうしたことかと思っていたら、帰り際に係官の軍人が「森閣下によろしく」とのたまったとのこと。与謝野寛あたりの配慮で、軍医総監だった鷗外が裏で手を回し、光太郎の徴兵を免除してやったらしいのです。
その鷗外・光太郎がらみの街歩き冊子ということで、良い試みですね。今度、森鷗外記念館さんに行った際にはゲットして参ります。みなさまもぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
詩とは決してある特殊の雰囲気の中(うち)だけにあるのではなく、人間の生きてゐるあらゆる場所に存在し、あらゆる心情に遍漫して居るのである。各人の心のまんなかにある一番大切なものから不可避の勢で迸出して来る言葉はみな詩となる。その吐かれた詩が又逆に人間活動の原動力となり、人間精神の滋味となる。
散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳
確かに当方など、光太郎詩から「人間活動の原動力」、「人間精神の滋味」を得させてもらっています。