呑気に花巻レポート的なことを長々書いているうちに、紹介すべき事項がまた山積みです(笑)。東北の地方紙2紙、コラムで光太郎智恵子に触れて下さっていますのでご紹介します。

まず、『福島民報』さんの「論説」欄。 

【智恵子没後80年】さらに魅力発信を(8月31日)

 今年は二本松市出身の洋画家・高村智恵子の没後八十年に当たる。詩人で彫刻家の夫高村光太郎が詠んだ「智恵子抄」の朗読大会をはじめ各種記念事業が市内で企画されている。智恵子が表現した芸術、文化の世界に改めて思いを巡らせ、魅力を県内外にさらに発信する機会としたい。
 智恵子は一九三八(昭和十三)年に五十二歳で亡くなった。病気療養中、千数百点に上る紙絵を残した。愛と芸術に生きた先駆的な女性と評価され、多くの人々を魅了している。
 朗読大会は全国から参加者を募り、十一月十八日に開かれる。夫妻への思いを込めたスピーチと詩の朗読を通じて二人の世界を感じてもらう。十月には智恵子に関する知識を問う「智恵子検定」や、智恵子抄を題材にしたスケッチ展示が行われる。十二月にはカフェを予定している。市内で販売されている智恵子にちなんだ菓子を味わいながら、二人の人生を語り合う。多くのファンが訪れる場となろう。
 紙絵や油絵が並ぶ記念館と生家は一九九二(平成四)年四月に開館した。一九九五年度には約八万三千人が訪れたが、減少傾向が続き、二〇一七年度は約一万六千人だった。展示物配置の刷新や生家を使った各種企画など来場者増を図る対応が待たれる。すぐ近くの鞍石山には「樹下の二人」の詩碑があり、「あれが阿多多羅山[あたたらやま]、あの光るのが阿武隈川…」を実感できる光景が広がる。記念館と生家を見た後、立ち寄れば、詩の世界をより身近に感じられる。整備されている遊歩道をもっと活用する手だてを探る必要がある。見学者の満足度向上を図り、観光ルートとして一層の売り込みに力を入れてほしい。
 九月九日からは福島現代美術ビエンナーレが「重陽の芸術祭」として二本松市で開幕する。切り絵や絵画の斬新な作品が市内に飾られる。生家も会場となる。新進気鋭の女性作家も多く出品する。若手女性作家を対象に智恵子の名前を冠した賞を創設する考えが実行委員から示されている。どう継続していくかなど課題はあるだろうが、実現へ向け検討してもらいたい。芸術家としての智恵子の魅力を広く訴える契機になる。
 二本松市は、おいしい日本酒、多彩な菓子、霞ケ城や二本松少年隊といった歴史、「ほんとの空」が広がる安達太良山、伝統の祭りなど観光資源に恵まれる。さらに誘客を目指すために全国的な知名度を誇る智恵子抄を生かしてほしい。(吉田雄一)

取り上げられているイベント等、また近くなりましたらそれぞれご紹介いたします。

「全国的な知名度を誇る智恵子抄を生かしてほしい」、その通りですね。


続いて『岩手日報』さん。一面コラムです。 

(風土計)2018.9.4

 挑戦する者には、常に無数の質問が浴びせられる。全く新しい試みであれば、なおさらだろう。「なぜ前例のないことをするのか」「リスクが大きすぎる」
▼一つ一つ質問に答えるうち、挑戦者は不安を覚えてくる。道を切り開く意欲は衰え、守りに入るようになる。英語で言う「death by a thousand questions(千の質問による死)」だ
▼二刀流の復活にも、数々の疑問が米メディアから投げかけられた。「打者に専念すべきでは」「チームが上位進出する見込みも薄いのに投手をやる意味がない」。それらを振り払い、挑戦者はマウンドに戻ってきた
▼大谷翔平選手の投手としての復帰戦は49球で終わったが、存分に野球を楽しんでいるように見えた。二刀流を疑ういくつもの「なぜ」に、日本にいた時から揺るがなかった人だ。これからも千の質問に、自ら切り開く道を阻まれることはないだろう
▼「岩手の人」を信念の強い牛に例えた高村光太郎に、「牛」という別の詩もある。〈牛は為(し)たくなつて為た事に後悔をしない/牛の為た事は牛の自信を強くする〉。自ら好きで挑んだことに悔いなどあるはずもない。挑むことで、自信は強さを増す
▼浴びせられる千の質問にも微動だにせず、ついにその成すべきを成す。牛のような、「岩手の人」の強さを見る。

岩手の皆さん、光太郎から贈られた詩「岩手の人」(昭和24年=1949)を大事にして下さり、いろいろなところで引用して下さいます。

岩手の人眼(まなこ)静かに、001
鼻梁秀で、

おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。

たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

画像は花巻北高校さん(大谷選手の母校ではありませんが)に立つ、高田博厚作の光太郎胸像の台座に刻まれたものです。

明日も新聞各紙から、ということで、周辺人物との関わりなどから光太郎に言及された記事をご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

普通に人は、詩精神の衝動によつて詩を書く人が詩人であると考へる。私は、詩精神の衝動によつて書いたものが必然的に詩になる人を詩人であると考へる。同じやうに聞えるがいささか違ふ。あらかじめ詩なるものを書かうとしてかかる人は、新旧に拘らず、詩といふものの類型に堕しがちだ。書いたものが必然に詩になる人にしてはじめて、づばぬけた生きた詩が出来るものだと考へるのである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

書いたものが必然に詩になる人」。他の文章で述べていますが、そうした者の好例が、宮沢賢治や草野心平だというのです。もちろん、自身も其れを目指していたのでしょう。