光太郎智恵子をモチーフとしたメインアトラクション「あどけない話のその向こう」の紹介。
もう1件、長野県の松本・安曇野・塩尻・木曽地域で発行されている『市民タイムス』さん、今日の一面コラム。
2018.8.18 みすず野
徳本峠を越えた。島々の林道入口に獣害よけの柵があったのを除けば、営業していた頃から時が止まったかのような岩魚留小屋のたたずまいも、力水から取り付く最後のささやぶのつづら折りも十数年前と少しも変わっていない◆峠まで16キロ。登りのつらさをウォルター・ウェストンは「奮闘の末に」勝ち得た快い昼寝と書き記し、芥川龍之介は小品「槍ヶ嶽紀行」で、案内人との距離が隔たり「とうとう私はたつた一人、山路を喘いで行く旅人になつた」と語る◆大正2(1913)年9月、上高地に滞在していた高村光太郎は徳本峠を越え、後に結婚する智恵子を岩魚留まで迎えに行った。その翌年に訪れた英文学者で登山家の田部重治は峠道から見る穂高連峰の姿を、山への観念を打破するほど「気高い」と随筆に書いて、読者をいざなった◆沢を渡り返す木橋の中には近年架け替えられたものもあった。古道を守ろうと汗する人たちがいる。岳沢から急な登山道をたどって前穂高岳のてっぺんに立った69歳の女性が、小紙の投稿欄に感激をつづっていた。当方は涸沢から奥穂、つり尾根を経て、その重太郎新道を岳沢へ下った。光太郎智恵子にふれていただき、ありがたいかぎりです。
【折々のことば・光太郎】
ともかく私は今いはゆる刀刃上をゆく者の境地にゐて自分だけの詩を体当り的に書いてゐますが、その方式については全く暗中摸索といふ外ありません。いつになつたらはつきりした所謂詩学が持てるか、そしてそれを原則的の意味で人に語り得るか、正直のところ分りません。
散文「詩について語らず――編集子への手紙――」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳
昭和25年(1950) 光太郎68歳
もはや晩年にさしかかった光太郎にして、この言です。「百尺竿頭に一歩を進む」の感があります。