まず、過日、第27回女川光太郎祭が行われた宮城県女川町からの報道。仙台放送さんのローカルニュースです。
津波到達点に17カ所目の「いのちの石碑」完成【宮城・女川】
宮城県女川町では、震災の記憶を未来に伝える「いのちの石碑」が完成し、11日、除幕式が行われました。 新しい「いのちの石碑」は、女川町の飯子浜地区に完成しました。「いのちの石碑」は震災の記憶を未来に残そうと2011年に入学した当時の女川中学校の生徒たちが、町内21カ所の浜に設置を進めているもので、今回が17基目の完成となります。
設置者のひとり、鈴木元哉さんは「まだまだ自分たちに出来ること、そんなことを見つけながら、減災・防災これからの1000年後の命を守るために、何か行動、活動ができたらなと思います」と話していました。
石碑には、1000年後の命を守るため「大きな地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などの対策案が刻まれています。
このブログでたびたび取り上げている、女川町に建てられた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。新たに17基目が除幕されたということです。毎回、頭の下がる思いです。
続いて、『岩手日日』さんの1ヶ月前の記事。サイト上では登録有料会員しか読めなかったのですが、福島二本松の、記事にもある「智恵子のまち夢くらぶ」さんの方からコピーを拝受しました。
高村夫妻が紡いだ縁 智恵子のまち夢くらぶ・福島 花巻訪問、山荘など見学
【花巻】彫刻家で詩人の高村光太郎の関連施設がある花巻市に15日、妻智恵子の出身地・福島県二本松市から智恵子を顕彰する市民団体が訪れ、戦後7年余りの間、光太郎が暮らした高村山荘などを見学して当時の自然環境に親しみながら、地元住民とも親交を深めた。 訪れたのは二本松市を拠点に活動する「智恵子のまち夢くらぶ」(熊谷健一会長)の会員と福島、郡山両市民を合わせ24人。同団体が光太郎や宮沢賢治を学ぶ機会にと実施したもので、花巻訪問は3年ぶり3回目。
一行は地元の太田地区振興会や花巻高村光太郎記念会の案内により、花巻市太田のかつて光太郎が暮らした高村山荘や高村光太郎記念館、智恵子展望台などを巡った。
一行の希望で、山荘内の「雪白く積めり」詩碑前で昼食を取った後、同記念館の関係者が横笛の演奏を披露したほか、子供の頃に光太郎と接した経験を持つ浅沼隆さん(76)=同市太田=が焼いたサンマを灰に落としてしまい、光太郎がそれを気にせずに食べたという思い出をしみじみと語り、ほのぼのとした雰囲気で交流を深めた。
智恵子のまち夢くらぶは2005年に結成し、智恵子の生家がある通りを「智恵子純愛通り」と愛称を付け、愛称記念碑を建立するなど、智恵子の顕彰と地域活性化の活動を展開。花巻の団体とは光太郎の命日(1956年4月2日)に毎年東京で行われる連翹忌(れんぎょうき)で知り合い、交流を図っている。熊谷会長(67)は「山荘は光太郎が晩年の一時期を暮らした大切な場所。私自身は6回目の花巻訪問になるが光太郎ゆかりの地が大切に保存されていることに感謝したい」と話していた。
高村山荘敷地内で地域づくり事業を展開している太田地区振興会の佐藤定会長(76)は「光太郎夫妻が取り持つ縁で生まれた交流なので末長く続けていきたい」と語る。
記事にも有るとおり、当会主催の連翹忌がこうしたコーディネートの拠点となっていることに、悦びを感じます。こうした輪をどんどん広げていきたいものです。
花巻高村光太郎記念館さんでは、企画展「光太郎と花巻電鉄」を開催中。皆様もぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
技術は前進し、精神は遡る。
散文「詩の進展」より 昭和18年(1953) 光太郎61歳
戦時中の文章ですので全体的には翼賛的なニュアンスで貫かれていますが、いわゆる「温故知新」ということが言いたいのだと思います。その点だけは評価できます。