当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第5号が届きました。

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巻頭近くに、当会顧問・北川太一先生の連作短歌「四月の雪」15首。昭和31年(1956)4月1日の光太郎昇天前日に始まり、同2日の死、同4日に青山斎場で行われた葬儀から火葬までの内容です。

近作で、その頃のことを思い返して作られたものかとも思いましたが、解説が付いており、それによればリアルタイムでその頃詠まれたものとのこと。昭和34年(1959)、北川先生が勤務されていた都立向丘高校定時制の生徒さん達が出されていた文芸誌『銀杏』が初出だそうです。

一首のみ引用。「うずたかく白きみほねのぬくもりに手触(たふ)れて申す永遠(とわ)のわかれを」。その悲しみやいかばかりだったと推察申し上げます。

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当方の駄文も載せていただいております。連翹忌、レモン忌の際にお配りしている当会刊行の『光太郎資料』や、高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』に載せている「光太郎遺珠」(筑摩書房さんの『高村光太郎全集』が完結した平成10年(1998)以降に見つかり続けている、光太郎詩文の集成)についてです。

さらに、文治堂書店さん創業者にして、昨年亡くなった渡辺文治氏の追悼的な文章、北川先生ご子息・北川光彦氏の玉稿なども掲載されています。

10月に『光太郎資料』ご購読いただいている方には同封いたします。その他、ご入用の方はこちらまでご連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

詩とは殆と生理にまでとどく程の、強い、已みがたい内部生命の力に推された絶対不二の具象による発言であつて、ああも言へる、かうもいへるといふ中の選択ではない。まして気随気儘な思ひつきなどでは決してありえない。

散文「詩の深さ」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

ただし、この文章を書いた頃の光太郎は、こけおどし的な漢文訓読調を多用した空疎な読むに堪えない翼賛詩を量産していましたが……。