4月にご紹介した、千葉県による「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」の選定が終わり、結果が発表されました。
「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」を選定しました!
オリンピック・パラリンピック競技大会はスポーツの祭典であると同時に文化の祭典でもあります。東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催は、本県の文化的魅力を発信する絶好の機会です。この機会を活かし、多くの県民の皆様に本県の文化資産を再認識していただくとともに、次世代に継承していくことが重要です。そこで、県民参加により「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」を選定することとし、昨年、「ちば文化資産」候補を広く募集の上、211件を候補としました。この度、県民の皆様による投票の結果等を踏まえ、111件を「ちば文化資産」として選定しました。
今後は、「ちば文化資産」を活用したイベントを実施する等、本県の文化的魅力を発信するとともに、地域の活性化につなげていきます。
「ちば文化資産」は、県内の文化資産のうち、県民参加により選定した、多様で豊かなちば文化の魅力を特徴づけるモノやコトとします。伝統的なものに限定せず、現代建築や景観等、千葉県の文化的魅力を発信するモノやコトを含みます。
候補に入っていた、「九十九里浜の景観」も選定されました。説明文がこちら。
九十九里浜沿岸は古来から多くの文化の跡が残されています。江戸時代以降はいわし漁等の漁業が盛んとなり、神輿を担いで浜に降りる「浜降り」や「潮踏み」等と呼ばれる習俗が現代まで続いており、海との深いつながりを感じられます。また、高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台となっています。
まぁ、九十九里浜は千葉県を代表する景観の一つですので、これが外されてしまうことはありえないだろうとは思っていましたが、無事に選ばれて胸をなで下ろしました。
その他、解説では触れられていませんが、光太郎智恵子の足跡などの残っている場所も複数選ばれています。
大正元年(1912)、光太郎がまず訪れ、智恵子が後を追ってやってきた銚子犬吠埼。経営や建物は変わりましたが、二人が泊まった宿・暁鶏館も健在(ひらがなで「ぎょうけい館」と名前は変更されていますが)。ここで光太郎は詩「犬吠の太郎」を構想しました。
また、市川市の中山法華経寺さん。光太郎の父・高村光雲原型の日蓮像が建っています。鎌倉の長勝寺さんに建つものと同型です。
さらに、「白樺派と文人の郷」ということで、我孫子市の手賀沼周辺。光太郎が訪れたことは確認できていませんが、光太郎と縁の深かった白樺派の面々、志賀直哉、バーナード・リーチ、柳宗悦らが暮らした場所です。
しかし残念ながら、光太郎の親友の作家・水野葉舟が暮らし、光太郎もたびたび訪れて、彼の地に詩碑が建てられた詩「春駒」(大正13年=1924)の舞台となった旧三里塚御料牧場は、「マロニエ並木」として候補には入っていたものの、選定には至りませんでした。
他にも光太郎智恵子の足跡は千葉県内の各所に残っています。当方、今秋、成田市と佐倉市のカルチャースクールで、「高村光太郎と房総」という講座を持たせていただけることになりまして、そのあたりをご紹介する予定です。また詳細が決まりましたらお知らせいたします。
というわけで、房総の地、ぜひお越しください。
【折々のことば・光太郎】
私は何を 措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の彫刻がたとひ善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。
散文「自分と詩との関係」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳
同じ文章の他の部分からも抜き出しますと、光太郎にとっての詩は「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって彫刻が「文学的になり、何かを物語」るのを避けるため、また「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」に書かれた「安全弁」だというのです。謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る文学的な彫刻(青年期には光太郎もそういう彫刻を作っていましたが)ではなく、純粋に造型美を表現する彫刻を作るため、自分の内面の鬱屈などは詩として吐き出すというわけです。