現在発売中の『サンデー毎日』さん。歌人の田中章義氏による連載「歌鏡(うたかがみ)」で、光太郎の短歌を取り上げて下さいました。
詩集『智恵子抄』に収められた「この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾(あ)をいねしめず」です。いわずもがなですが「この家」は、かつて光太郎智恵子が暮らした本郷区駒込林町25番地のアトリエ兼住居です。
光太郎の生涯の概略、智恵子が心を病み、九十九里浜での療養を経て、昭和13年(1938)に亡くなったことなどがわかりやすくまとめられています。そして合間に同じく詩集『智恵子抄』に収められた「気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり」、九十九里での智恵子を謳った「いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる」も紹介されています。
そして、「眼を閉じても浮かんでくる亡き妻を思う作者」として、「この家に……」の解説。
確かにそのように読めてしまう短歌です。龍星閣版のオリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)では、智恵子の臨終を謳った絶唱「レモン哀歌」、その葬儀をモチーフとした「荒涼たる帰宅」、さらに智恵子歿後の内容である「亡き人に」と「梅酒」のあとに短歌6首が置かれているため、自然に読めば「この家に智恵子の息吹みちてのこり」と言われると、「亡き妻」と思ってしまいます。
ところがこの短歌、初出は歌人の中原綾子が主宰していた雑誌『いづかし通信』の昭和13年(1938)9月16日号。つまり、10月5日に亡くなった智恵子はまだ南品川ゼームス坂病院で存命中です。したがって、この短歌において「眼を閉じても浮かんでくる亡き妻を思う作者」というのは当てはまりません。もっとも、智恵子が歿した後、改めてそういう思いに駆られたことはもちろんあったでしょうが。
また、この歌が詠まれた時点で、生きた智恵子がこの家に帰ってくる事はあるまい、という推測があったのか、さらにはうがった見方かも知れませんが、もはや光太郎の中では智恵子は「亡き妻」と化してしまっているという解釈も成り立つかもしれません。それを裏付けるかのように、光太郎は智恵子が亡くなった10月5日まで、5ヶ月間、病院に見舞いに行きませんでした。そのあたりはだいぶ以前にこのブログで書いております(五ヶ月の空白①。 五ヶ月の空白②。)
さて、「歌鏡(うたかがみ)」の田中氏、「『智恵子抄』は日本文学史上に煌(きら)めく挽歌(ばんか)の詩集として、今後も長く読み継がれていくことだろう。」と結んでいます。そうであってほしいものですし、そうなるよう、努力して行きたいと存じます。
【折々のことば・光太郎】
随分つまらない詩から立派な音楽も出来るし、随分立派な詩からつまらない音楽も出来る。それは詩人の知つた事ではない。
散文「詩人の知つた事ではない」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳
朋友の北原白秋や三木露風などと異なり、歌曲の作詞にあまり興味を抱かなかった光太郎ならではの言です。
最初から歌詞として作られた光太郎詩は十指に満たず、光太郎生前に既に書かれていた詩に曲が付けられたケースも多くありません。それらに対し賛辞を送っている場合がありますが、どうも社交辞令的なもののようで、本心からすばらしい歌曲が出来たと思ったことは一度もないようです。具体的な作品名は伏せているものの、自分の作詞で「つまらない音楽」を作られてしまった、的な発言もあります。
そう考えると、のちのシンガーソングライターのように、自分で詩を書き、自分で曲を付けるというのが、ある意味、本道なのかもしれません。