7/14(土)、岩手花巻からの帰り、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に寄って参りました。こちらで開催中の「第80回展覧会 明治の御慶事-皇室の近代事始めとその歩み」を拝見。
光雲作の木彫「文使」が展示されており、拝見して参りました。
平成14年(2002)に、茨城県近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際に見ていますので、二度目となりますが、改めて見て、その超絶技巧にはやはり舌を巻きました。
画像には写っていませんが、文使の背部の帯の結び目など、どうやったら一木から彫り上げられるのだろうという感じです。それから文使いのかしこまった表情。人形のようなそらぞらしさは無く、確かに血の通った人間の描写です。全体のシルエットというか、モデリングというか、そういった点でも守旧にとどまることなく、西洋美術のエスキスもちゃんと取り入れた光雲ならではのしっかりしたもので、作り物感がありません。
また、台座の部分には、蒔絵と螺鈿細工が施されています。おそらくそれぞれ専門の職人の手によるものと思われますが、これまた精緻な作りとなっていました。
明治33年(1900)の作で、当時の皇太子(後の大正天皇)ご成婚に際し、逓信省から献上されたということです。献上当時、文使が手にしている柳筺には、このご成婚に際して発行された記念切手17枚(妃殿下の年齢に合わせて)が入れられていたとの事。何とも粋な計らいですね。
図録を購入して参りました。
三の丸尚蔵館さんでの企画展示で発行される図録は、いつも圧巻です。とにかく解説文がすごい。今回のものも、維新後の近代化の波の中で、皇室の慶事がどのように変遷していったのか、それから光雲も内部装飾に関わった皇居の造営に関してなど、非常に興味深く拝読しました。
で、新たな発見が一つ。「お前、そんな事も知らなかったのか」とお叱りを受けそうですが、明治天皇の生年は、光雲と同じ嘉永5年(1852)でした。光雲がことさら明治天皇を敬愛して已まなかったその裏側には、自分と同年だという一種の親近感的な感情もあったのではないかと思った次第です。確証はありませんが。
他にも、一級品の出品物がずらり。ただ、三の丸尚蔵館さん、展示スペースが狭いので、入れ替えながらの展示です。現在は後期です。下の画像、クリックで拡大します。
8月5日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
実に飛躍(ル ボン)は其の合言葉である。多彩、多音、流動は其の趣味の基本である。胆大、強行、率直は其の用意である。
散文「未来派の絶叫」より 明治45年(1912) 光太郎30歳
「未来派」は、イタリアを中心に興った芸術運動で、過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもの。明治42年(1909)、詩人のマリネッティの「未来主義創立宣言」によって始まった運動です。
光太郎、過去の伝習の破壊という部分には共鳴しつつも、拙速といえば拙速なその展開にとまどい、全てを肯定しているわけではありません。ただ、やはり、共感する部分も多かったのは事実です。