7月14日(土)、企画展「光太郎と花巻電鉄」開幕を迎えた花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんを後に、レンタカーを北に向けました。当初予定では、東の花巻市街に向けて、光太郎が戦中戦後に歩いた界隈を歩く予定でした。そこで、昨年発刊された隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』の第6号「特集 賢治の足跡 光太郎の足跡」を持っていったのですが、予定を変更しました。高村光太郎記念館さんで、下記の企画展情報を得たためです。 

ハナをめぐる人の環 ~野村ハナ生誕130年・没後50年記念企画展~

期 日 : 2018年6月10日(日)~10月21日(日)
会 場 : 野村胡堂・あらえびす記念館  岩手県紫波郡紫波町彦部字暮坪193-1
時 間 : 9時~16時30分
料 金 : 一般/300円 (250円) 小中高校生/150円 (100円) 
      ( )内は20名以上団体割引料金
休館日 : 月曜日 ただし7/16、9/17、10/8は開館、翌日が休館

野村胡堂の妻ハナが通った日本女子大学。上代タノ、長沼智恵子、井上秀、平塚らいてうなどそこで出会った人々とは、生涯を通して親交を深める。母校へ、友人へ、そして家族に向けたあたたかな眼差しと想いにふれる。

 今年は、『銭形平次捕物控』の執筆者である野村胡堂の妻ハナの生誕130年・没後50年です。ハナは紫波町彦部村の出身で、大恋愛の末に胡堂の妻となり、80歳で生涯の幕を閉じました。その長い人生には、苦しい時代や度重なる不幸がありましたが、それでもキリスト教の信仰を生きる支えとし、家族や友人など多くの人々に愛情を注ぎます。
  明治38年、岩手県立高等女学校から東京の日本女子大学附属高等女学校へと転校したハナは、その後、日本女子大学で学び、母校の同附属高等女学校で教師として勤めました。その間に多くの人々との交流が生まれ、時には支え協力し合いながら人生を歩みました。日本女子大学成瀬記念館の所蔵資料をもとに、ハナの豊かな人の環と遺徳を紹介します。

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調べてみると、先月の『岩手日報』さんに記事が出ていました。智恵子の名が無かったので、気づきませんでした。 

胡堂の妻ハナ、深い愛情 紫波、記念館で企画展

 紫波町出身で「銭形平次捕物控」著者の野村胡堂(1882~1963年)の妻ハナ(1888~1968年)の生誕130年、没後50年を記念する企画展「ハナをめぐる人の環(わ)」は、同町彦部の野村胡堂・あらえびす記念館(杉本勉館長)で開かれている。初公開の3点を含め、友人や家族との手紙や写真から、愛情にあふれるハナの人物像が感じ取れる。
 展示しているのは同館や、ハナが通った日本女子大が所蔵する書簡など36点。ソニーの創業者井深大(1908~97年)、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)らとの交流を紹介する写真や手紙もある。
 このうち初公開は▽日本女子大の卒業証書▽同大第6代学長の上代(じょうだい)タノ(1886~1982年)へ宛てた書簡▽同大図書館設立のためにハナが胡堂の代筆で書いた寄付の覚書。
 10月21日まで。午前9時~午後4時半。毎週月曜日休館。入館料は一般300円、小中学生150円。24日、7月29日、8月26日、9月23日の午後1時半から学芸員が解説する。9月30日午後1時半からは盛岡二高箏曲部によるコンサートもある。問い合わせは同館(019・676・6896)へ。
2018.06.18


こちらのチラシが高村光太郎記念館さんに置いてあり、これは行かねば、と思った次第です。花巻街歩きはまたの機会にすることにしました。

紫波町は花巻市のすぐ北で、意外と早く着きました。平成26年(2014)に行った際には、山形市、仙台、盛岡と廻る途中で立ち寄ったため、在来線東北本線の日詰駅から歩き、結構難儀しましたが、レンタカーですと楽でした。

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申し訳ないのですが、常設展示は後に回し、まず企画展会場へ。

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智恵子より2歳年下の野村ハナ(旧姓・橋本)は、智恵子と同じ日本女子大学校の出身。智恵子のすぐ下の妹・セキと同じ教育学部の2回生で、智恵子とも親しくなり、テニス仲間の一人だったそうですし、帰省する際には福島の智恵子の実家に立ち寄ったこともあるそうです。明治43年(1910)には、野村胡堂と結婚。いろいろと事情があって、蕎麦屋の二階座敷でのささやかなものだったそうですが、その際には金田一京助が胡堂の、智恵子がハナの介添えとして出席したとのこと。ハナとセキに関してはこちら

今回の展示では、直接智恵子に関わる展示物はありませんでしたが、同級だったセキと一緒に写っている写真が数種類ありました。セキの写真はあまり見たことがなく、興味深く拝見しました。

その他、智恵子を『青鞜』に引きこんだ平塚らいてう、光太郎による日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵胸像制作に関わったり、智恵子葬儀に女子大学校代表として参列したり、戦後は光太郎に講演を依頼したりした同校第四代校長・井上秀(朝ドラ「あさが来た」では吉岡里帆さんが「田村宜」名で演じていました)らからの書簡など。

そんな中で、展示の終わり近くでパネルに大きく印刷されていた、胡堂の「良い籤を引いた」という一文が目を引きました。昭和27年(1952)の雑誌『キング』に載ったものだとのこと。

結婚してから四十三年になるが、夫婦喧嘩というものをやった経験は無い。ご質問に応じかねて、誠に相すまぬようであるが、こればかりは致しかたもない。四十三年もの長い間を掴み合いも口喧嘩もしなかったのは、多分私は人間が甘く出来ており、老妻がズルく立ち廻った為だろうと思う。尤も、仕事のことで、時には気むずかしいこともあり、年のせいで、些か小言幸兵衛になりかけているが、老妻は巧みにあしらって、決してこれを喧嘩にはさせない。
(略)
四十三年前、もり蕎麦で結婚した私達は、もう、日本流に算えて七十一才に六十五才だ、喧嘩をせずに来たのは、運がよかったのかも知れない。これから先も無事に平凡に余生を送るだろう。つまりは良い籤を引いたのだ。

幸せな結婚生活を続けることが出来た感懐がほほえましく記されています。

この中で、こんな一節もありました。

自分の芸術のために幾人もの女に関係する男や、夫の芸術のために自分を犠牲にする女を私はお気の毒だと思っている。そんな芸術はこの世の中に無い方が宜しい。

幾人もの女に」云々はともかく、「夫の芸術のために自分を犠牲にする女」は、もしかすると、光太郎智恵子を念頭に置いているのでは、などと思いました。証拠はありませんが、昭和27年(1952)といえば、『智恵子抄』が龍星閣から復刊され、ベストセラーとなっていた時期ですので。

直接、智恵子に関する展示がなかったので少し残念に思っておりましたが、帰りがけ、ミュージアムショップ的なコーナーで、胡堂の弟子筋に当たる藤倉四郎氏の著書『バッハから銭形平次』(青蛙房・平成17年=2005)に目がとまりました。同じ藤倉氏が同じ青蛙房から出された『カタクリの群れ咲く頃の』(平成11年=1999)は所蔵しておりますが、こちらは存じませんでした。パラパラめくると、智恵子に関する記述がありました。明治44年(1911)、当時、雑司ヶ谷にセキと共に住んでいた智恵子の元を、ハナが生まれたばかりの長男を連れて訪れたことがハナの日記に記されているというのです。これは存じませんでした。購入してこようかとも思いましたが、他の部分には智恵子に関する記述がなさそうなので、図書館等で探してコピーしようと思い、やめました。セコいようですが、少しこういうところで節約しないと、なかなか厳しいものがありますので……。

さて、野村胡堂・あらえびす記念館さん、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一体、人間が斯うやッて此世に生れて来たに就いては何か目的が無ければならない。何か神様から言ひつかッて来た事が無ければならない。唯併し乍ら、我々は其を草が草であり、木が木であるが如くには容易に知る事が出来ない。
戯曲「青年画家」より 明治38年(1905) 光太郎23歳

「青年画家」は、翻訳を除き、確認できている光太郎唯一の戯曲です。他に「佐佐野旅夫」クレジットの戯曲「地獄へ落つる人々」(明治45年=1912、『スバル』)も、実は光太郎作品ではないかと推定されますが、確証はありません。

「青年画家」は、現在では否定されているハンセン病に関する偏見があったり、筋立てにも無理があったりしますが、若き日の光太郎の、自らや芸術に対する真摯な思いが見て取れる作品です。この年、「第一回新詩社演劇会」で上演され、石井柏亭、生田葵山、伊上凡骨らが出演しました。引用部分は、与謝野寛演じる「上野」(主人公・「佐山」の親友)のセリフです。