演劇系の公演情報を二つ。

まずは先月から既に始まっていますが、かつて光太郎を主人公とした「暗愚小伝」を上演された劇団青年団さんの公演。 

青年団第79回公演 『日本文学盛衰史』

原作:高橋源一郎 作・演出:平田オリザ
2018年6月7日(木)- 7月9日(月) 32ステージ
会場:吉祥寺シアター
前売     一般:4,000円 ユース・シニア:3,000円 高校生以下:2,000円
予約・当日  一般:4,500円 ユース・シニア:3,500円 高校生以下:2,500円

文学とは何か、人はなぜ文学を欲するのか、人には内面というものがあるらしい。そして、それは言葉によって表現ができるものらしい。しかし、私たちは、まだ、その言葉を持っていない。この舞台は、そのことに気がついてしまった明治の若者たちの蒼い恍惚と苦悩を描く青春群像劇である。

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夏目漱石、島崎藤村、田山花袋、石川啄木、芥川龍之介、北原白秋ら、近代の文豪達の群像劇だそうで、光太郎も登場人物の一人に名を連ねています。


もう1件。愛知長久手から。 
会 場 : 長久手市文化の家 
       愛知県長久手市野田農201番地
時 間 : 12:00~/19:00~
料 金 : 無料

高村光太郎「智恵子抄」の一編「レモン哀歌」を躍り・音楽・朗読で考察してみる、実験的な公演です。
【出演】細川杏子(フルート)藤島えり子(演劇)、豊永洵子(舞踊)ほか


「レモン哀歌」にしてもそうですが、詩は小説ほどに具体的な描写が為されているわけではなく、受け取る側が想像をふくらませることが可能です。登場人物の服装だの表情だの、もっと遡れば、場所、時間、人物の配置、その他。そしてその時その場所で何が起こったのか、人物がなんと言ったのか。小説ではそれらが細々と書き表されますが、詩ではそれらは読者の想像にゆだねられます。

それだけに、二次創作の題材としやすい部分もあるのでしょう。さまざまな分野の表現者の方々が、音楽、演劇、舞踊、漫画、小説、映像作品……美術系でも絵画やイラスト、伝統工芸、現代アートなどでさまざまに表現して下さいます。小説や漫画を元ネタにしたそれらは、元ネタの方が情報量が多く、ダイジェストになってしまいますが、詩から出発すると、そうはなりません。

当会顧問・北川太一先生もおっしゃっています。

 はじめこの詩集は光太郎の一方的な思いこみにすぎず、光太郎の声だけしか聞こえない単なる幻想の産物だと批判した者もあった。しかし智恵子に関する資料が徐々に発掘され、智恵子が肉声で語りはじめるにつれて、その生の軌跡はますますリアリティを加え、文学としての評論、創作はもとより、ドラマ、オペラ、歌曲、舞踊、邦楽等々芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。 
  (『芸術夢紀行シリーズ 智恵子抄アルバム』 芳賀書店 平成7年=1995)

今後とも、様々な分野の方に「智恵子抄」を取り上げていただきたいものです。ただし、そこにリスペクトの精神を以て、ですが。


【折々のことば・光太郎】

甘いものは飛んでしまひ、苦いもの、渋いもの、ゑがらつぽいもの、すべてけちけちした空気にたまるわらぢ虫のやうな心の中の塵埃は皆焼かれてしまふ。あとには出来たてのやうな心が眼をあける。心が本来の道にかへる。心は少し赤面しながら再び勇気を奮起させる。単に心を感奮させ、いはゆる襟を正させるものは世の中に少くないが、心を必ず原始の生きいきした姿にしてくれるものは、ざらにない。だが芸術にこれを求めないで、その外の何を求めよう。
散文「楽聖をおもふ ベートオヴエン百年忌を迎へて」より
大正15年(1926) 光太郎44歳

そこに病的なもの、頽廃的なものの入る余地を認めなかった光太郎が捉えた、文学音楽美術その他、あらゆる分野の「芸術」の存在意義が語られています。