皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんでの企画展示です。4月から始まっていますが、展示替えに伴い、光太郎の父・高村光雲作の木彫が、来月から展示されます。 

第80回展覧会 明治の御慶事-皇室の近代事始めとその歩み

会 期 : 平成28年4月28日(土)~8月5日(日)
      前期:4月28 日~5月27日 中期:6月2日~7月1日 
      後期:7月7日(土)~8月5日(日)
休館日 : 毎週月・金曜日 7月16日(月・祝)は開館し7月17日(火)は休館
時 間 : 午前9時~午後4時45分(入館は午後4時30分まで)
料 金 : 無料

慶応3年(1867)正月に明治天皇が践祚し,同年12月には王政復古の大号令が発せられます。これは,平安時代からの摂関制と,鎌倉時代以来の武家政治の終わりを告げるものでもありました。翌年には正月に天皇の御元服儀,8月に即位礼が挙行され,その直後に改元が行われて,若き天皇とともに明治という時代が幕を開けたのです。欧米列強と肩を並べるために,天皇を中心とした近代国家の形成は急務であり,天皇および皇族の新たな役割が模索されることになります。それは,主に儀礼をつかさどる存在であった近世の朝廷とは大きく異なるものでした。
まだ戊辰戦争が継続する中,京都御所紫宸殿で行われた即位礼では,儀式の次第は古制をほぼ踏襲しながらも,参加者の服制や式場の鋪設は日本の本来的,理想的なあり方に戻そうと努めるなど,新旧の要素をうまく結合させた新しい天皇の姿を示そうという姿勢がうかがえます。
そして,明治2年(1869)以降,政治の中枢は京都から東京へと移り,明治21年になると近代国家としての行事を行うのにふさわしい明治宮殿も竣工しました。その後,明治27年の天皇大婚二十五年の祝典や,同33年の皇太子(大正天皇)御成婚といった御慶事のたびに,海外諸国の例も参考としながら盛大な儀式,祭典が開催され,内外に対して広く近代皇室の姿が公開されていきました。
三の丸尚蔵館では平成19年に,皇室の御慶事が相継いだ大正時代をテーマにした展覧会「祝美(いわいのび) ―大正期皇室御慶事の品々」を開催しました。その前段階にあたる明治時代の御慶事および皇室の諸行事に関する三の丸尚蔵館所蔵の美術品や書陵部の資料を,明治150年にあたるこの年に紹介します。本展が,様々な模索を通して近代皇室の基盤が整備されていく,明治という時代の重要性を再認識していただく機会となれば幸いです。

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光雲作品は、「文使」。明治33年(0031900)頃の作です。材は桜、50センチほどの高さです。

「文使」は、文書を届ける役人です。服装が闕腋袍(けってきのほう)ですので、飛鳥時代から平安時代のものです。文書を収めた柳筥(やなぎばこ)を捧げ持ち、かしこまる姿を表しています。

光雲は明治30年(1897)に古社寺保存委員会委員に任ぜられ、翌年には京都、奈良、滋賀、和歌山と2府2県を廻る出張に出ています。その際に関心を持った古代の風俗を取り入れたと考えられます。

また、光雲が出仕していた東京美術学校の制服(教官・生徒とも)が、初代校長・岡倉天心の発案による、闕腋風のデザインでした。

だいぶ不評で、やがて廃止されましたが、光太郎が入学した明治30年(1897)当時はまだ残っており、光太郎の制服姿の写真も残っています。

下記画像、まずは教官。左から光雲、黒川真頼、岡倉天心、橋本雅邦、川端玉章です。明治27年(1894)のもの。

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こちらは細谷三郎(左)と光太郎(右)。細谷はのちに而楽(しらく)と号し、仏像修復の分野で活躍します。明治30年(1897)の撮影です。

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閑話休題。三の丸尚蔵館さん、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

光雲は仏師の旧套を脱して新時代の彫刻を創りだそうと努力し、当時日本にあまり扱われなかつた鳥や獣を好んで彫つた。刀法はふるいが、題材が新しいので、何かしら新鮮なものがとらえられ、また伝統的彫刻から写生の方向に赴くにつごうがよかつたのである。

散文「高村光雲 老猿」より
 昭和26年(1951)
 光太郎69歳

光太郎晩年に書かれた光雲評です。重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)について。この作は東京国立博物館さんに所蔵されており、常設ではありませんが、時折、展示されます。現在も並んでいるようです。