『日経』さん、2日の夕刊文化面に西郷隆盛に関する記事が出、光太郎の父・光雲の名も出ていました。
遠みち近みち 西郷 そのとらえがたい像
高村光雲の手になる東京・上野公園の西郷隆盛像。右手で綱を引かれる犬の名をご存じだろうか。「ツン」というらしい。 西郷の犬好きは、よく知られ、猟犬として飼いつつも座敷に上げてかわいがったらしい。魚肉や卵を与えられ、ひどく肥満してしまい、猟に向かなくなったものもいたという。
歴史学者の家近良樹さんが昨年、ミネルヴァ書房から出した500ページを超える西郷の評伝には、49年の激動の人生を彩った数多くのエピソードが盛られ、多面的な人物像を存分に知ることができる。
知略に優れ、事に当たっては綿密な計画を立てて行動する。まじめで、ぜいたくを嫌う禁欲さも備え、「この人のためなら」と接した人を揺り動かす包容力もある。
一方で、人の好き嫌いもかなり激しく、多情な面もあったという。
自ら采配をふるって旧体制を破壊しながら、結局、新政府の方針にあらがい、慕う者らとともに西南戦争に打って出て、敗れ去ってしまった。波乱そのものの一生だが、歴史家の目は冷徹だ。
別の著書で家近さんは、こんなことを書いている。
西郷は極めて「男ぶり」がよく、数々の試練で人間力を磨き、たぐいまれな人望を得た。しかし、逆にその人望ゆえに身を滅ぼすことになった――。
一方で、西郷のライバルだった徳川慶喜については、こう評価した。リーダーに不可欠な人望がなく、政権返上(大政奉還)を独断で行い、結果として日本を内乱の危機から救った――。
慶喜にリーダーの資質がなかったゆえ、近代日本は思わぬ幸運に恵まれたのだという。
明治維新から150年。数々の国難に直面する現在、往時の指導者らの全貌に迫るのは諸改革へ向けた指針ともなるにちがいない。
(編集委員 毛糠秀樹)
『日経』さんらしく、組織論、リーダー論でまとめています。
記事本文はネットの電子版で読めたのですが、地元の図書館さんでコピーを取っておこうと思い、拝見。すると、隣には「文学周遊」という連載。 光太郎も登場する、室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』についてで、驚きました。ただ、光太郎の名は出ていなかったので、電子版での検索の網に漏れていました。
室生犀星「我が愛する詩人の伝記」 長野・軽井沢町 先きに死んで行った人はみな人がらが善すぎる
室生犀星は、長野県の軽井沢を深く愛した詩人である。初めての軽井沢滞在は、31歳になる夏、奥信濃への旅の帰りだった。旧軽井沢にある旧中山道沿いの「つるや」旅館に宿泊した。以来、亡くなるまで40年余り、夏の軽井沢滞在を欠かしたことがない。初の滞在から6年後の1926年(大正15年)からは、別荘を借り、31年には「つるや」旅館からほど近い雑木林の中に、木造平屋の別荘を新築した。44年夏には、東京から疎開し、49年までの5年間、厳寒の冬も過ごしている。
「犀星は多くの文人を軽井沢に招き、結びつけた軽井沢文学の恩人だった」と軽井沢高原文庫副館長の大藤敏行さんは話す。芥川龍之介を軽井沢に誘い、「つるや」で襖(ふすま)一枚隔てた部屋で同宿したのも犀星だったし、後に軽井沢文学の象徴となる堀辰雄が、23年初めてこの地を訪れたのも、犀星の誘いからだった。
11人の詩人の肖像を描く評伝「我が愛する詩人の伝記」の中でもとりわけ精彩に富むのが、親友、萩原朔太郎や、堀辰雄、立原道造、津村信夫といった年少の詩人の記述だろう。軽井沢の犀星の別荘での描写は中でも印象深い。
近隣の追分から午前中にやってきた立原は、犀星が原稿を書いていると、庭にあった木の椅子に腰を下ろして、「大概の日は、眼をつむって憩(やす)んでいた」。立原道造が、夏の日の差す庭の椅子に痩躯(そうく)を任せて眠る姿は、何とも魅力的だ。「夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に」。立原の夢のような詩を愛する読者は、犀星が描く立原の生々しい面影に、ハッとするはずだ。多くの年若い詩人に先立たれた犀星は、本書で愛惜の思いを隠さない。
犀星の旧居は、純和風の建物をほぼそのまま残して軽井沢町が19年前に室生犀星記念館として公開した。現在、老朽化した建物の補修のため閉館中だが、来年4月末には再オープンする。旧軽井沢の商店街からも近い旧居は、洋館の点在する別荘地の中にあり、犀星が丹精して植えた苔(こけ)が新緑に輝いている。
北陸新幹線開業で、夏の旧軽井沢はにぎわいを増した。しかし、最晩年の犀星が自ら文学碑を建てた矢ケ崎川の河畔は今も静かだ。清流の自然に包まれた小さな詩碑からはこの避暑地とともに歩んだ詩人の深い愛が見えてくる。
(編集委員 宮川匡司)
むろう・さいせい(1889~1962) 金沢市生まれ。詩人・小説家。高等小学校を中退後、金沢地方裁判所に給仕として就職。20歳で上京。貧困と放浪の生活の中で萩原朔太郎と親交を結ぶ。18年、第1詩集「愛の詩集」を刊行。翌年、自伝的短編小説「幼年時代」「性に眼覚める頃」を発表。20年、長野旅行の際、軽井沢に宿泊。31年に新築した軽井沢の別荘で夏を過ごし、多くの作家、詩人を招いた。代表作に詩集「抒情小曲集」、小説「杏つ子」「かげろふの日記遺文」。
58年刊の「我が愛する詩人の伝記」は、雑誌「婦人公論」連載後に刊行された評伝で、親交のあった詩人11人の生身の人間像を豊富な逸話で描く。

「親交のあった詩人11人」のうちの一人が光太郎というわけで、このブログでも何度か同書がらみの記事を載せました。
犀星記念館さん、記事にあるとおり、来春リニューアルオープンだそうで、折を見て行ってこようと思いました。皆様も是非どうぞ。
【折々のことば・光太郎】
結局どんな人間の姿態でも美でないものはないといふことを納得させられる。人間は一個の豊麗な美のかたまりであるといふことを。
散文「ロダンの作品 素描」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳
かつてパリ郊外ムードンのアトリエで、内妻・ローズに見せてもらったロダンの素描についてです。「人間賛歌」的な部分で、ロダンの血脈を継いだ光太郎ならではの感想です。