光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の広報紙『広報はなまき』の今月1日号に、先月行われた第61回高村祭の記事が載っています。
光太郎に思い馳せる 第61回高村祭
5月15日、彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する「第61回高村祭」が高村山荘詩碑前で行われ、約650人が威徳をしのびました。 光太郎にゆかりのある太田小学校の児童が、遺影の飾られた詩碑に献花し開会。参加者全員で詩「雪白く積めり」を朗読したほか、地元小中高生などが合唱や朗読を披露しました。
続く座談会では、光太郎と交流のあった地元民4人が思い出を紹介。訪れた皆さんは、語られるエピソードに耳を傾け、郷土ゆかりの先人に思いを馳せていました。
それから、同じ第61回高村祭を報じた、『読売新聞』さん岩手版。ネットでは有料会員登録をしないと読めませんで、自宅兼事務所に隣接する成田市の市立図書館さんで拝読しました。
光太郎をしのぶ 献花や座談会も 花巻・高村祭
詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第61回「高村祭」が15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で開かれた。小中高生らが献花し、詩の朗読や合唱を披露。光太郎と交流があった地元民4人が思い出を語る座談会も行われ、約650人が耳を傾けた。 終戦前の1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、交流があった宮澤賢治の実家に招かれて5月15日に花巻へ疎開。約7年間、粗末な小屋で農耕自炊の日々を送った。
座談会では、高橋愛子さん(86)が光太郎と初めて会った時の印象を、「よれよれのリュックを背負って大きな靴を履き、本当に偉い先生なのかと思った」と明かした。よく亡くなった妻の智恵子さんの話をしていたといい、「寂しくないかと尋ねると、『智恵さんがいるから』と答えていた」と懐かしんだ。
小学生だった高橋征一さん(75)と浅沼隆さん(76)は、光太郎がサンタクロースの姿で学芸会に来た時のことを、「愛子さんと母親が赤いじゅばんで縫った服を着て、羊毛のひげを付けていた」と紹介。小屋で火をおこす手伝いをした時は「火吹き用に渡された紙筒が英字新聞で驚いた」という。
遅ればせながらご紹介いたしました。
高村山荘、そして隣接する花巻高村光太郎記念館さんでは、明後日、市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」を開催予定。さらに来月14日からは企画展「光太郎と花巻電鉄」が予定されています。目玉はジオラマ作家・石井彰英氏作成の、光太郎居住当時前後を再現した花巻とその周辺のジオラマ。完成したとの報が届いています。また近くなりましたらご紹介します。
結局これは一つの造形的結構であり、人体をこういう形にしてそれを作つたに止まり、見る者は一つの山のような、海のような、「巨大なるもの」の人体的形象化を見れば十分なのである。
散文「考える人」より 昭和25年(1950)
光太郎68歳
平凡社刊行『世界美術全集24 西洋十九世紀』に載った、ロダン作「考える人」の解説から。左は同書の図版です。
書き出しは、「「考える人」は別に考えているのではない。こんな動物的巨大漢がこんな無理な形で物を考えている筈もない。」。
「無理な形」は、右の肘を左の太ももに置くという、極度に上半身をねじったポーズです。
ロダンに出会う前、若かりし頃の光太郎も、そういう彫刻を作って喜んでいましたが、いわくありげなポーズや謎めいた題名をつけた「文学的」な彫刻は、彫刻を病ましめるものだと悟りました。以後、光太郎の彫刻は純粋に造形美を表出するもの、自己内面の喜怒哀楽は彫刻に表すべきでなく、詩歌などの文学で吐き出す、という方向に行きました。
文学的にいろいろなことを物語っているように見えるロダン彫刻も、純粋に造形美として見るべし、ということですね。