『朝日新聞』さんの別刷土曜版be。「みちのものがたり」という見開き2ページの連載が為されており、毎回、日本全国の様々な「道」と、それにまつわるドラマが紹介されています。今年の1月には、「高村光太郎「道程」 岩手 教科書で覚えた2大詩人」ということで、花巻郊外の光太郎が7年間を暮らした山小屋、高村山荘が紹介されました。

昨日は、福島県二本松市。霞ヶ城(二本松城)の東側にある切り通しの坂、竹田坂と亀谷(かめがい)坂が大きく取り上げられました。

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物語の主役は、幸田露伴。明治20年(1887)、電信技師として働いていた露伴は、文学への志を棄てがたく、赴任していた北海道余市から、職を放棄して帰京します。汽車賃もままならぬ青息吐息の強行軍で、行き倒れになりかけることもしばしば。その途次で思い浮かんだ句「里遠し いざ露と寝ん 草枕」から、「露」を「伴」とする、ということで「露伴」と号するようになったとのことです。

で、二本松。この道中を記録した『突貫紀行』に、次の一節があります。

二本松に至れば、はや夜半ちかくして、市は祭礼のよしにて賑やかなれど、我が心の淋しさ云ふばかりなし。市を出はずるる頃より月明らかに前途ゆくてを照しくるれど、同伴者(つれ)も無くてただ一人、町にて買ひたる餅を食ひながら行く心の中いと悲しく、銭あらば銭あらばと思ひつつやうやう進むに、足の疲れはいよいよ甚しく、時には犬に取り巻かれ人に誰何せられて、辛くも払暁(あけがた)郡山に達しけるが、二本松郡山の間にては幾度か憩けるに、初めは路の傍の草あるところに腰を休めなどせしも、次には路央(みちなか)に蝙蝠傘を投じてその上に腰を休むるやうになり、つひには大の字をなして天を仰ぎつつ地上に身を横たへ、額を照らす月光に浴して、他年のたれ死をする時あらば大抵かかる光景ならんと、悲しき想像なんどを起すやうなりぬ。

この時食べた餅が、竹田坂と亀谷坂の峠にあった茶店、「阿部川屋」の「阿部川餅」。その後、茶店は東北本線の郡山―塩竃間の開通後、坂を通る人の減少に伴い、閉店。10年ほど前に、二本松の街作り団体が「露伴亭」として復活させました。近く(歩くには少し遠いのですが)には智恵子の生家・智恵子記念館もあります。

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と、まあ、『朝日新聞』さんでは、こんな感じの紹介でした。周辺ガイド的に智恵子生家・智恵子記念館も紹介して下さいました。


このブログではもう少し、突っ込みます。

露伴が「阿部川餅」を購入した茶店「阿部川屋」。何と当時の主人が、智恵子の実の祖父なのです。その名を安斎彦兵衛。文化12年(1815)、二本松で生まれました。歿したのは明治37年(1904)、数え90歳の長寿でした。

安斎氏は元は安西氏と号し(幕末に改姓)、室町時代の正平元年(1347)、足利尊氏に従ってこの地にやってきた安西太郎左衛門真行を祖とします。真行は上川崎地区に館を築き、子孫は紆余曲折を経て、寛永年間には完全に町人となりました。元禄10年頃に生まれた16代安西元喜は、京都に歌や神道を学びに行き、その帰途、東海道の安倍川宿で食べた「安倍川餅」に感激、職人を一人譲り受けて帰郷、字を変えて「阿部川餅」の製造販売を始めました。

下って安斎彦兵衛は28代目。正妻との間に子がありませんでしたが、茶店で働いていた武田ノシとの間に、戊辰戦役のさなかの明治元年(1968)、女の子が生まれました。その子がセン、智恵子の実母です。やがてノシは、新潟の田上から流れてきた杜氏の長沼次助と所帯を持ち、センも連れ子として後に長沼姓となります。次助は新潟に妻子を残したまま二本松に居着き、長沼酒造を興して大繁盛。それが智恵子の生家です。

茶店は彦兵衛の養子の子、29代賢太郎の代に石屋に転業、現在も安斎石材店として、茶店のあった場所に続いています。また、竹田坂の麓には、安斎(安西)氏の菩提寺、真行寺があり、一族の墓碑等が残っているようです。このあたりもきちんと訪れようと思いつつ、まだ果たせていません。

明治20年(1887)、智恵子の祖父が幸田露伴に餅を饗し(ちなみに智恵子はその前年、長沼酒造で生を受けています)、下ってその露伴の弟子だった田村俊子は智恵子の親友となり、同じく露伴の弟子で俊子の夫だった田村松魚は光太郎と親しくつきあい、光雲の懐古談を筆録……。

つくづく縁とは不思議なものだと思います。

『朝日新聞』さんの「みちのものがたり」、全文はご紹介できませんが、購読されていない方、朝日さんのサイトで読める他、公立図書館さん等にも置かれているでしょう。ぜひお読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

世界の幾多の批評家がロダンを寸断する。私は彼等の殆どすべてに不満である。私は日本人であるが、それ故、フランス人よりもロダンが分からないとは思はない。

書き下ろし書籍『ロダンより 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎著の『ロダン』。この年、北原白秋の弟・鉄雄が経営する出版社・アルスから刊行されました。翌年にはペーパーバックの普及版も。

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現在でも格好のロダン評伝です。対象に対する深いリスペクトのなせる業でしょう。