定期購読しています日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。昨年6月号から始まった「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が、2年目に入りました。
今号は、全体の特集テーマが「さあ、暑中見舞いを送りましょう」ということで、光太郎に関しても、光太郎がさまざまな人物に送った夏の手紙が紹介されています。題して「光太郎が送った夏のたより」。
全3ページで、1ページ目は、はがきの画像入り。宛先は戦時中、光太郎を花巻に招いた一人で、戦後すぐには光太郎を約1ヶ月、自宅離れに住まわせた佐藤隆房医師です。はがきの現物は花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されています。
足かけ8年にわたった花巻、そして郊外旧太田村での蟄居生活最後の年、昭和27年(1952)の7月19日付。いつ見ても光太郎の筆跡は味のあるすばらしい字です。流麗な美しい文字というわけではないのですが、この独特の味はなかなか出そうと思って出せるものではありません(そこで、今日の記事は「書道」カテゴリーで投稿します)。
先日中は大変お世話さまになりました。久しぶりで、家庭の空気に触れることが出来て愉快でしたが夏の季節のため早く引き上げねばならなくなり残念に思ひました、
山居七年、山の人間になつてしまつた小生の生理には普通の市民生活が無理になつたものと見え、此の分では東京での生活がどうあらうかと気がかりでもあります、 ツヅク
2枚組の1枚目なので、「ツヅク」となっています。
「久しぶりで、家庭の空気に触れることが出来」は、この月10日から12日にかけ、独居自炊の郊外太田村から花巻町に出て来て、佐藤邸に滞在したことを指します。前月には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、青森十和田湖を訪れており、その報告を佐藤、そして宮澤賢治の父・政次郎にするためでした。
「夏の季節のため早く引き上げねばならなくなり」云々。光太郎は「冬の詩人」と言われますが、まさしくそうで、夏の暑さは一番の大敵としていました。昭和24年(1949)の夏には、旧太田村の山小屋で、熱中症とみられる症状のため4回も臥床しています。
「東京での生活」。この年10月に、太田村での山小屋生活をいったん切り上げ、東京に戻って「乙女の像」の制作にかかることを指しています。完成後は再び太田村で暮らすつもりでいましたが、健康状態がもはやそれを許さず、昭和28年(1953)初冬、十日あまり戻ったのみで、その後は東京を出ることがかないませんでした。
ところで、「ツヅク」のあとの2枚目は、かなりどきりとさせられる内容が含まれています。『月刊絵手紙』さんでは紹介されていませんが、『高村光太郎全集』第15巻から引用します。
ただ東京滞在が秋から冬にかけての季節なので、幾分凌げるかとも思ひかへしてゐます。まづ仕事に専念して一切を克服する外はないでせう。七年間見て来たところでは、花巻の人達の文化意識の低調さは驚くのみで、それは結局公共心の欠如によるものと考へられます。宮澤賢治の現象はその事に対する自然の反動のやうにも思はれます。賢治をいぢめたのは花巻です。
足かけ8年、花巻町と郊外旧太田村で厄介になった光太郎、その点では感謝しても感謝し尽くせないという思いは当然ありましたが、それでもその生活すべてが快いものではありませんでした。閉口させられる部分、腹立たしいことなども少なからずあり、そうした思いを、心許した佐藤には洩らしたのだと思われます。
やはり不世出の巨人を収めておくには充分な器ではなかったということでしょう。そして賢治にもそれは当てはまるというわけですね。生前の賢治の生き様は、故郷の人々に完全に理解、肯定されたわけではなかったという指摘、ある意味、その通りでしょう。「賢治をいぢめたのは花巻です。」重い一言です。
さて、『月刊絵手紙』さん。このはがき以外に7通の「光太郎が送った夏のたより」が紹介されています。そちらは現物が花巻高村光太郎記念館さんにあるわけではなさそうで、活字での紹介です。長くなりますので(ブログのネタに少し困り始めたという点もあり(笑))、明日、ご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
この女体のゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱を見よ。
散文「ミケランジエロの作品」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳
平凡社刊『世界美術全集17 ルネサンス期Ⅱ』に寄せた図版解説18篇のうち、イタリアフィレンツェのメディチ家礼拝堂に収められた4体の装飾彫刻(「朝」、「昼」、「夕」、「夜」) 中の「朝」解説文から。
同書から画像を採りました。「ゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱」。まさにその通りですね。
この文章の書かれた昭和25年(1950)の時点で、十和田湖の「乙女の像」の構想がどの程度光太郎の頭の中にあったのか、判然とはしませんが(「智恵子観音」を造るというアイディアはそれ以前からありました)、「ゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱」という意味では、明治42年(1909)、欧米留学の最後にその眼で観たこの像も参考にしているのではないかと思われます。