光太郎第二の故郷・岩手花巻の旧太田村で昨日開催された第61回高村祭。地元紙『岩手日報』さんのサイトには、昨日のうちに報道がアップされました。 

光太郎しのび歌や作品朗読 花巻で高村祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1900356年)をしのぶ第61回高村祭(高村光太郎記念会など主催)は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で開かれた。地域住民や県内外のファンら約650人が参加し、多くの名作を生んだ光太郎への敬慕の思いを寄せた。
 光太郎と交流のあった太田小に通う高橋文耶君と照井美空(みく)さん(ともに2年)が詩碑に献花。西南中1年生が「西南中学校精神歌」を歌うなど地元の児童生徒たちが光太郎作品を披露し、地域住民らが座談会で思い出を語り合った。
 光太郎は戦災のため花巻に疎開し、45年5月15日から約7年間を過ごした。


同じく地元紙『岩手日日』さんは、最近、有料会員登録をしないと記事全文が読めなくなってしまっており、割愛します。


サイトで確認できたのは、今日になって『朝日新聞』さんの岩手版。 

花巻で61回目の「高村祭」

 彫刻家で詩人の高村光太004郎が戦時中、東京から岩手県花巻市に疎開した日を記念した「高村祭」が15日、同市太田の高村山荘周辺であった。約500人の参加者が詩碑の前で光太郎の詩を朗読したり思い出を語ったりして、その芸術と人柄に思いを寄せた。

 「花巻高村光太郎記念会」の主催。光太郎の死後、山荘近くに詩碑が除幕された1958年から続いて今年で61回目になる。晴天に新緑が輝く中、地元の西南中学校の生徒らが、光太郎の「雪白く積めり」などを朗読した。

 1945年から7年間、花巻で暮らしていた当時、光太郎と交流があった地元の4人による座談会もあった。光太郎から短歌を学んだという高橋愛子さん(86)は「(山荘の独り暮らしで)寂しくないですかと聞いたら『智恵さん(亡妻の智恵子)がいるから』と話していた」と懐かしんでいた。(溝口太郎)


テレビニュースの動画で、岩手めんこいテレビさん。

高村光太郎をしのぶ 詩人で彫刻家

詩集「智恵子抄」などで知られる、詩人で彫刻家の高村 光太郎の功績をしのぶ「高村祭」が、岩手・花巻市で開かれた。
高村 光太郎は1945年の5月15日、花巻市に疎開し、この地で7年間過ごした。
「高村祭」は光太郎の功績をしのんで毎年行われていて、高村山荘の近くの会場にはおよそ600人が集まった。
15日は、近くの太田小学校の児童や花巻北高校の生徒が、光太郎の詩を朗読した。
光太郎に短歌を教わった高橋愛子さんは、「『愛子さんも(短歌を)書いてみたら』と言われた。(光太郎に見せたら)自分の書いたところが直されて無かった。とにかく何でも知っている人だった」と語った。
参加した人たちは、花巻を愛した偉大な芸術家に思いをはせていた。

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プログラム中の座談会でもお話しいただいた高橋愛子さん。単独インタビュー(笑)。

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それから、『読売新聞』さんも、顔見知りの北上支局長さんがいらしていましたので、記事になっているか、これからなるのか、当方自宅兼事務所隣町の成田市立図書館さんに行けばオンラインサービスで調べられそうですので、近々行ってみます。

暗いニュース、腹立たしい報道が多い中、こうしたニュースであふれてほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

もともと彼は捨身飼虎の菩薩に外ならず、死の数時間前にさえ、訪問してきた一農人の為にわざわざ二階の病室から下りて農事の相談に応接したほどの、殆と仏に近い人であつた。私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低限食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも必ず肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」の問題は重大である。

散文「玄米四合の問題」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

自分より13歳年下ながら遙かに早く夭折した天才・宮澤賢治を、光太郎は敬愛して已みませんでした。しかし、有名な「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」の部分には納得いかなかったようで、いろいろな箇所でこれではいかんと発言しています。日本人と欧米人との体格差という部分が、戦後のこの時期に特に気になったのではないでしょうか。後半では日本にもっと肉食や牛乳飲用が広まることを期待し、酪農を勧める提言もしています。