埼玉県東松山市の広報紙『広報ひがしまつやま』の今月号。今年初めに市立図書館さん内にオープンした「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が大きく取り上げられています。
田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー
ところ 市立図書館2階(常設展示中)
ビデオ上映 午前9時30分~午後5時
問 市立図書館 ☎22-0324 FAX22-0064
田口弘 1922年(大正11年)〜2017年(平成29年)
詩人、教育者。昭和51年から16年半にわたり市教育長を務める。その間、日本スリーデーマーチの開催や、東武東上線高坂駅前に彫刻家・高田博厚の作品32点が並ぶ高坂彫刻プロムナード【高田博厚彫刻群】の整備に携わる。学生時代より、恩師の影響で高村光太郎に傾倒し、生涯研究を続けた。光太郎から贈られた書や交流書簡、関係書籍などを平成28年に東松山市に寄贈した。
高村光太郎 1883年(明治16年)〜1956年(昭和31年)
詩人、彫刻家。彫刻家・高村光雲の長男として生まれる。大正3年、口語自由詩の詩集「道程」を刊行。昭和16年、妻・智恵子との愛の生活をうたった詩集「智恵子抄」を発表。戦後は戦争協力の責任を感じ、岩手県太田村(現花巻市)の粗末な山小屋にこもり自炊生活を送った。アトリエの庭に咲く連翹の花を好んだことから、命日である4月2日には東京と花巻で「連翹忌」が営まれる。
詩人、彫刻家。彫刻家・高村光雲の長男として生まれる。大正3年、口語自由詩の詩集「道程」を刊行。昭和16年、妻・智恵子との愛の生活をうたった詩集「智恵子抄」を発表。戦後は戦争協力の責任を感じ、岩手県太田村(現花巻市)の粗末な山小屋にこもり自炊生活を送った。アトリエの庭に咲く連翹の花を好んだことから、命日である4月2日には東京と花巻で「連翹忌」が営まれる。
①高村光太郎コーナーの全景。モニターでは光太郎の思い出を生前の田口さんが語りかけてきます。
②光太郎が田口さんのために書した聖書の一節(ロマ書)。
③光太郎から送られた書簡やはがきを展示しています。
④1月13日にオープン式典が行われ、田口さんの長女・直子さんも出席しテープカットが行われたほか、記念講演会も行われました。
東松山市さんといえば、やはり故・田口氏のご遺徳で、光太郎と縁の深かった彫刻家・高田博厚との関わりも深い街です。昨年には鎌倉の高田アトリエにあった遺品類が寄贈されるなどしています。そもそもは、高田の存命中に東武東上線高坂駅前からのびる「高坂彫刻プロムナード」が整備されたのが大きな契機となっています。
その「高坂彫刻プロムナード」の、先月発行された新しいパンフレットを頂きました。恐縮です。
高田の詳細なプロフィール、東松山市との関係など、オールカラーで40ページ。
32体並ぶ彫刻、一点ずつ、1ページとって紹介されています。下記は光太郎胸像。
さらに恐縮なことに、「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」オープンの際に、当方が行った記念講演の模様が、東松山市さんのHP内に動画で紹介されています。暇な方は御覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
朝起きて顔を洗ひ含漱をして、ああせいせいしたと思ふのも美である。さういふ単純な感覚上の美がいつのまにか最も深い精神上の美にまでもつながるのである。人は日常身辺の健康な感覚上の美によつて無意識裡に力づけられる。その力が大きい。
散文「十二月八日の記」より 昭和17年(1942) 光太郎59歳
太平洋戦争開戦を受けて、翌年元日発行の『中央公論』に寄せた文章です。
のちに戦局が悪化すると、そうでなくなりますが、開戦の時点での光太郎、まだかなり冷静に「非常時こそ美を愛する心を忘るるなかれ」的な発言をしています。