昨日は都内杉並区に出て、同区の社会教育センター・セシオン杉並さんで開催された、「音のわコンサート」を拝聴してまいりました。

社会教育センターといいつつ、ざっと見積もって600席ぐらいの大ホールが完備されており、意外でした。


「音のわ」コンサート、音楽家の吉田寛子さんという方を中心とした、地域のさまざまな団体さん合同の演奏会、といった体でした。




第1部、第2部は、合唱系が中心。
第1部の「音楽物語「鹿踊りのはじまり」は、そうだろうなと予想していたのですが、故・長澤勝俊氏作曲による昭和30年(1955)の作品でした。宮沢賢治作の童話「鹿踊りのはじまり」を元にするものです。「鹿踊りのはじまり」は、賢治生前唯一の童話集『注文の多い料理店』(大正13年=1924)に収録されており、光太郎は同書を詩人の黄瀛から借り、さらに親友だった作家の水野葉舟に又貸ししています。同年刊行された賢治のやはり生前唯一の詩集だった『春と修羅』は、当会の祖・草野心平の回想に依れば、光太郎が智恵子と二人で「小岩井農場」などのユーモラスな部分をクスクス笑いながら読んでいたとのことで、「鹿踊りのはじまり」も、もしかしたらそうだったのでは……などと思いつつ拝聴しました。
第2部で、光太郎作詞、吉田さん作曲の「或
る夜のこころ」が演奏されました。今年2月にカワイ出版さんから刊行された楽譜集『吉田寛子作品集 或る夜のこころ』の表題作です。本来、女声三部合唱で作曲されていますが、今回は混声合唱でした。演奏は「CantaMamma & 音のわ合唱部」さん。元々のアルトのパートを、男声が担当していたようです。公刊されたのは今年ですが、吉田さんが学生時代の作曲ということで、「少し」前の作品です。

詩「或る夜のこころ」は、明治から大正に改元された1912年7月の「或る夜」を題材にしたもの(詩の完成は翌月)。前年暮れに知り合った智恵子への抑えがたい思い、しかし、その思いを抑えねば、という自制心のはざまに揺れ動く光太郎の心情が謳われています。明治42年(1909)、欧米留学から帰国した光太郎は、西洋で学んできた最先端の芸術と、旧態依然の日本芸術界のあまりのギャップに立ち往生し、北原白秋や吉井勇らの「パンの会」の狂乱に巻き込まれたり、吉原の娼妓・若太夫や、浅草のカフェよか楼の女給・お梅などの素人ではない女性達に入れあげたりといった、荒れた生活を送っていました。父・光雲との相剋から、彫刻もきちんと作っていませんでした。そんな自分が果たして智恵子を幸せに出来るだろうか、という思いがあったのでしょう。
8月には銚子犬吠埼に絵を描くためしばらく滞在。すると、何と智恵子が追ってきます。それにより、ほぼ光太郎の心は固まったのでしょう。翌大正2年(1913)には婚約、さらに同3年(1914)には、結婚披露(この時点では入籍はせず)と相成ります。
合唱「或る夜のこころ」、そうした光太郎の揺れ動く、しかし抑えがたい智恵子への思い、といったものが、力強く鮮烈に表現されていました。音の厚みも出ますし、光太郎という男性視点の詩ですから、やはり混声合唱でという選択は正解だったと思いました。

第3部は一転して、吹奏楽系。久々に吹奏楽をきちんと聴きましたが、いいものですね。合唱は当方、自分の趣味で取り組んでいるのでしょっちゅう聴いているのですが、迫力が違います。あとは、合唱はビジュアル的に変化に乏しく見ていて面白くありません(笑)。



終演後、吉田さんと少しお話をさせていただき、厚かましくもサインを頂いてきました(笑)。
今後とも、吉田さん、そしてお仲間の皆さんのご活躍を祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
所有しないから見ない。見ないから分らない。一般民衆の精神生活と美術とに何の関係もないのが今日の状態である。今日の美術品は一体どうなつて行くのか。多くは金満家の蔵の中に仕舞ひ込まれる運命を科せられてゐる。美術家はもつと一般の人に奉仕したい。一二の人に愛蔵せられるよりも満天下の人と共に創造の悦びを分ちたいのだ。
散文「一彫刻家の要求」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳
「満天下の人と共に創造の悦びを分ちたい」。美術家に限らず、あらゆるジャンルの芸術家の皆さんは、そうなのでしょう。昨日の「音のわコンサート」を拝聴し、そう感じました。