4/30(月)、秋田の小坂町立総合博物館郷土館さんで、「平成29年度新収蔵資料展」を拝見した後、レンタカーを十和田湖に向けました。

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途中の紫明亭展望台から。

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画像中央あたりに、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」があります。

昼前に十和田湖畔休屋地区に到着。まずは「乙女の像」にご挨拶。こちらも小坂町同様、今年の2月以来です。ただ、その時は、「十和田湖冬物語2018」期間中で、ライトアップされている夜間に参りましたが、地吹雪的な感じで立っているのも困難、早々に立ち去ってしまっていました。

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残雪をバックに見るのはおそらく初めてで、いい感じだな、と思いました。

その後、遊覧船の波止場近くにある、十和田市さんの施設「観光交流センターぷらっと」へ。平成26年(2014)にオープンした施設で、無料の休憩所と、十和田湖特産のヒメマスや、十和田湖を広く世に紹介した明治の文豪・大町桂月、そして光太郎に関する展示も行っています。光太郎コーナーの説明板は、当方が執筆させていただきました。

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入ってすぐ、以前にはなかったジオラマの展示があり、「おっ」という感じでした。

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スケール大きめの十和田神社さん。それから、休屋地区全体のものと、2点です。

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「乙女の像」もちゃんとありました。

続いて2階へ。先月から、新たな展示物が2点、加わっています。まずは、昨夏寄贈された、光太郎胸像。作者は青森市ご在住の彫刻家・田村進氏です。平成元年(1989)、青森県中泊町に設置された、太宰治肖像「小説『津軽』の像(太宰治とたけ)」を制作したことで知られています。

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台座部分は新たに制作されました。刻まれている題名は「冷暖自知光太郎山居」。光太郎が、昭和20年(1945)10月から同27年(1952)10月までの7年間、戦時中の戦争協力を恥じ、岩手県花巻郊外旧太田村の粗末な山小屋に蟄居生活を送っていた当時の肖像彫刻で、直接のモチーフは、昭和24年(1949)10月、太田村の光太郎のもとを訪れた写真家の濱谷浩が撮影した写真です。

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「冷暖自知」とは「仏法の悟りは、人から教えてもらうものでなく、氷を飲んでおのずからその冷暖を知るように、体験して親しく知ることのできるものである。」(岩波書店『広辞苑』)の意。大正元年(1912)作の光太郎詩「或る宵」中の「彼らは自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた/曾て裸体のままでゐた冷暖自知の心を―― 」という一節に使われています。

題字揮毫は、晩年の光太郎と親しく交わり、その没後は筑摩書房『高村光太郎全集』の編集に当たるなどした、光太郎顕彰第一人者にして、当会顧問の北川太一先生です。

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力強い彫刻です。写真は拝見していましたが、実物は初めてで、想像していたよりも大きく、その点でも驚きました。

それから、こんなものも。

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これは一体何なのか、ということになりますが、下の方に写っている台がメインです。

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何とこちらは、昭和27年(1952)から翌年にかけ、東京中野のアトリエで、光太郎が「乙女の像」制作の際に使っていた彫刻用の回転台なのです。

当時の写真がこちら。

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この写真にも写っている、「乙女の像」制作の際の助手だった、青森野辺地出身の彫刻家・小坂圭二がこの台を譲り受け、さらに平成4年(1992)の小坂の歿後、小坂に師事した彫刻家・北村洋文氏の手に渡り、やはり昨年、北村氏から十和田市さんに寄贈されました。

昨夏、当方、その関係で千葉船橋の北村氏の工房にお邪魔し、現物を確認して参りました。その際の写真がこちら。

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金具は「サスペンダー」というそうで、上に載せた彫刻を固定するためのものですが、これも当時のものです。はじめにこの寄贈の話が出たのは一昨年くらいだったと記憶していますが、よくぞこれが残っていた、否、残して下さっていた、と感激しました。

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船橋から十和田へのトラックでの輸送やら、クレーンを使ってのぷらっと2階への据え付けやらも、大変でした。何せ、総重量が250キログラムほどある代物です。

上の分厚い木の板を外すと現れる金属の回転機構部分、これが何と、戦時中の高射砲の部品なのです。

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昭和28年(1953)5月26日付の『東京新聞』さんに載った、「生活に流れる〞詩〟を拾つて 美術映画「高村光太郎」クランク・イン」と言う記事に「戦争の道具を平和な仕事に使つてるんです」という高射砲台座の回転台をまわしたりするところを丹念に撮影」という記述があります。ちなみに今もスムーズに回転します。

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像の顔や手などの高い部分の制作では、光太郎は脚立に登り、下で助手の小坂が回転台を廻して使っていたのだろうと思われます。

戦時中の高射砲はこちら。この根元の部分ですね。ただ、写真は八八式野戦高射砲ですが、高射砲も○○式という型番がいくつかあり、自走式になっているもの、据え付け式のものなど、バリエーションが色々あるようで、そのどれなのかまでは特定できませんでした。

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今回、十和田湖まで赴いたのは、新たに寄贈されたこの2点を拝見するためで、さらにこの2点の説明板の執筆を頼まれました。現在は何のキャプションもなくただ置いてあるだけで、特に回転台の方は一般の人が見てもその正体が何なのか、わからないでしょう。出来るだけ早く原稿を仕上げ、十和田に送るつもりです。

その辺りの打ち合わせを十和田市の観光推進課長・山本氏と致しまして、その後、千葉の自宅兼事務所に帰りました。

十和田湖、これから新緑のいい季節でしょう。皆様もぜひ足をお運びの上、「ぷらっと」にお立ち寄り下さり、新たな展示を御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は一人の男性としてあらゆる女性の内に潜む母性の愛に跪くものである。さうして其によつて浄められようとするものである。無限の奥行あるその深みから幾度でも人を蘇らせる幽妙なその力を受けようとする者である。

散文「母性のふところ」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

智恵子の顔を持つ「乙女の像」、そこにも光太郎は「母性」を感じていたのかもしれません。

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