今月2日、東京日比谷で開催した当会主催の連翹忌とは別に、光太郎第二の故郷・岩手花巻でも花巻としての連翹忌、さらに光太郎が暮らした郊外旧太田村での詩碑前祭が行われました。

毎年、ネットでその報道を検索し、このブログでご紹介していましたが、今年それを報じて下さった地元紙『岩手日日』さん、それから『朝日新聞』さん、ともに有料会員向けページでの掲載で、読むことができませんでした。

ふと、当方事務所兼自宅のある千葉県香取市に隣接する、成田市の市立図書館さんで、『朝日新聞』さんの記事検索ができるデータベースサイト「聞蔵Ⅱビジュアル」が閲覧できることを思い出し、行って検索して参りました。 

光太郎の63回忌 詩を朗読、しのぶ 花巻市の高村山荘/岩手県

 彫刻家で詩人の高村光太郎の63回忌にあたる2日、光太郎が晩年を過ごした花巻市太田の高村山荘で詩碑前祭があった。約50人の住民が参加し、「道程」や「岩手の人」、「雪白く積めり」など光太郎の詩を朗読して故人をしのんだ。
 戦時中、宮沢賢治との縁で東京から花巻に疎開した光太郎は、戦後も1945年から7年間にわたり、当時の太田村山口の山荘で暮らした。
 厳寒の地で1人暮らした理由は、戦争協力詩などを書いたことへの「自責」とされているが、山荘時代の光太郎は、野良仕事帰りの村人をコーヒーでもてなすなど地域と様々な交流を重ねたという。
 白ひげのサンタクロース姿で村の小学校の学芸会に参加したことも。そこで光太郎から駄菓子を貰った記憶がある高橋征一さん(75)は、「クリスマスなんてなかった時代に華やかな気持ちになれた。当時は入植したじいさんだと思っていたが、ありがたい人です」となつかしんだ。
(2018.4.7)

高橋征一さんは、比較的有名なこの写真で、右から二人目。太田地区振興会の副会長さんで、この詩碑前祭や毎年5月15日の高村祭などの裏方を務められ、さらに光太郎の語り部としても活動なさっています。

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ありがたいですね。


ついでに先月末の神奈川版の記事。神奈川近代文学館さんで開催中の特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」に関してです。こちらは無料会員でも閲覧できる記事ですが。 

【神奈川の記憶】 (105)生誕140年「与謝野晶子展」

■恋・戦争…「まことの心」詠む
 ◇大胆でパワフル 行き方たどる
 歌人与謝野晶子の作品と人生をたどる特別展が神奈川近代文学館(横浜・港の見える丘公園)で開かれている。開館から34年、「取り上げたことのない最後の大物」だったというが、生誕140年を記念しての企画となった。
 晶子といえば、まず「みだれ髪」だろう。1901(明治34)年、22歳で刊行した第一歌集である。
  その子二十櫛(はたちくし)にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
  やは肌のあつき血汐(ちしほ)にふれも見でさびしからずや道を説く君
 今日でも奔放さを漂わせる。美への思いや恋愛を若い女性が高らかに歌い上げたのだ。同時代の人には大きな驚きだっただろう。
 展示ではその背景を紹介している。与謝野鉄幹の存在だ。詩歌革新を掲げ「明星」を創刊した鉄幹は投稿作品を熱心に添削したが、晶子への指導は〈挑発〉だったと歌人の三枝昂之さんは指摘する。「京の紅は君にふさはず我が噛(か)みし小指の血をばいざ口にせよ」と「明星」に記した。「晶子の才能を見抜き、もっと大胆に、もっとパワフルに、と煽(あお)り続け」、生まれたのが「みだれ髪」だったと三枝さんは考える。
 晶子は髪が豊かでいつも髪を幾筋か垂らしていたので「みだれ髪の君」と呼ばれていたという。
 鉄幹と晶子はこの年、結婚。晶子の作品に刺激され北原白秋、高村光太郎、石川啄木らが参加し「明星」は浪漫派の拠点となる。
     *
 晶子といえばもう一つ思い出す「君死にたまふこと勿(なか)れ」も紹介されている。
 あゝをとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ/末に生れし君なれば/親のなさけはまさりしも/親は刃をにぎらせて/人を殺せとをしへしや
 日露戦争が始まった1904年、激戦地の旅順に弟が送られた。当時、問題とされたのは、今日とは異なる視点からだった。
 すめらみことは戦ひに/おほみづからは出でまさね/かたみに人の血を流し/獣(けもの)の道に死ねよとは/死ぬるを人のほまれとは/大みこゝろの深ければ/もとよりいかで思(おぼ)されむ
 天皇は戦場に出ないと指摘したこの部分が、「世を害する」と国家主義の立場から厳しい批判を浴びた。
 それに対して晶子は、何かにつけて天皇の名をあげ「忠君愛国」を説くといった風潮は危険であり、私の好きな王朝文学の中で天皇が人に死ねという場面など見たことがないと指摘。さらに「まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候(そうろう)べき。まことの歌や文を作らぬ人に、何の見どころか候べき」と反論した。
 〈反戦詩〉として脚光を浴びるのは第2次大戦の後のことのようで、「家族を思う〈まことの心〉」を詠んだというのが晶子の思いだったようだ。
     *
 1878(明治11)年に晶子は大阪・堺の和菓子商の家に生まれた。店番のかたわら、蔵にあった古典を読みふけり育った。
 「一生の事業」として晶子は「源氏物語」の現代語訳に取り組むが、紫式部を「12歳の時からの恩師」と慕い、「式部と私との間にはあらゆる註釈(ちゅうしゃく)書の著者もなく候」と記している。
 「新訳源氏物語」全4巻を1913年に完成させたが、納得できなかった。そこで32年に改訳に乗り出した。35年には鉄幹が急逝。「新新訳源氏物語」全6巻が完成したのは39年。その翌年に脳出血で倒れ、42年に亡くなる。文字通りのライフワークだった。
 その生涯をたどるとパワフルさに圧倒される。鉄幹との間にもうけた子どもは12人。その子育てをしながら創作に励んだ。評論も数多く、戦前期を代表する女性論客ともいえそうだ。
 経済的にも家を支えた。鉄幹が不遇の時期を迎えると、鉄幹の渡欧を実現させようと資金集めに奔走。歌を百首も書き付けたびょうぶを売り出している。
 欧州からの手紙を受け取ると、晶子は7人いた子どもを親族に託し12年にパリへと旅立っている。
 近代日本に新たな表現世界をもたらした浪漫派の代表歌人とされる晶子だが、「顕彰されるようになったのは死後いくらかたってからでした」と文学館の浅野千保学芸員は説明する。その奔放さ、大胆さは「ふしだら」と受け止められがちだったようだ。
 展示をめぐりながら、ついつい思い浮かべるのは「忖度(そんたく)」がキーワードの昨今の風潮。晶子ならどんな歌を詠むのだろう。
 「歌は歌に候。後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候」
 晶子のこの言葉が強く記憶に残った。5月13日までの開催。

ちなみに、「君死にたまふこと勿(なか)れ」を批判した急先鋒は、大町桂月。のちに光太郎が、桂月ら「十和田の三恩人」を顕彰する「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作することになるのは、不思議な縁だと思います。


もう1件。福島の地方紙『福島民友』さんから。

【二本松】闇夜に浮かぶ「万燈桜」 道の駅「安達」でライトアップ開始

 二本松市の道の駅「安002達」智恵子の里下り線の入り口にあるエドヒガンザクラの巨木「万燈(まんとう)桜」が満開となり、ライトアップが4日からスタートした。22日まで毎日午後6時30分~同10時に点灯する。
 万燈桜は樹齢約270年の一本桜で、高さ約15メートル。初日は同所で点灯式が行われ、同道の駅を運営する市振興公社社長の三保恵一市長が「利用者に大いに楽しんでもらいたい」とあいさつ。同社の松坂浩統括・駅長と共に点灯のスイッチを押した。
2018/04/06

万燈桜、樹齢はおよそ270年だそうで、かつてこの近くに住んでいた智恵子も見上げたのではないでしょうか。見事ですね。


ところで「聞蔵Ⅱビジュアル」、以前に国会図書館さんでそれを使って、光太郎生前の記事をいろいろ検索させていただきましたが、久しぶりに今回使ってみると、昔の記事も増えている、というか、検索能力が上がってでヒットする件数が増えているように感じました。また、『毎日新聞』さんのデータベース「デジタル毎日」も同様でした。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』、その補遺である当方編集の「光太郎遺珠」(雑誌『高村光太郎研究』に連載中)にも漏れている、光太郎談話等が見つかりそうで、また調べに行って参ります。


【折々のことば・光太郎】

趣味は知識でも得られない。論理でも捕捉し難い。実に厄介至極なものである。
散文「富士見町教会堂の階上にて」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

ここでいう「趣味」とは、「趣味は音楽鑑賞です」などの、「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄」という意味ではなく、「悪趣味」といった、「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方」の意です。

まさしくその通りですね。