最終的には大理石像にするつもりで、粘土原型を作っていたものですが、結局、未完のまま終わり、現在、現存が確認できていない彫刻です。
光太郎曰く、
私は智恵子の首を除いては女声の肖像をあまり作つてゐない。はるか以前に歌人の今井邦子女史の胸像をつくりかけたのに、途中で粘土の故障でこはれてしまつたのは惜しかつた。幸ひ写真だけは残つてゐて女史の随筆集の挿画になつてゐる。女史の持つ精神の美と強さとが幾分うかがはれるかも知れない。あの首は大理石で完成するつもりで石まで用意してあつたのである。
(「自作肖像漫談」 昭和15年=1940)
モデルとなったのは、今井邦子(明23=1890~昭23=1948)。島木赤彦の『アララギ』や、長谷川時雨の『女人芸術』に依った歌人で、のち、自ら歌誌『明日香』を主宰しました。
夫の健彦は、衆議院千葉四区選出の代議士。当時の千葉四区は、銚子や、当方自宅兼事務所のある香取市を含む区域でした。そこで今井夫妻、居住はしていなかったようなのですが、たびたびこの地を訪れています。また健彦は、銚子漁港の整備や、現在のJR成田線の敷設に力を注ぎ、そのため、銚子の名誉市民に認定されています。
ちなみに健彦は静岡出身。父親は、何と、坂本龍馬暗殺に関わったとされる幕臣・今井信郎です。邦子は四国の生まれで、幼少期に信州諏訪にうつり、北海道に住んでいたこともありました。それがなぜ千葉四区なのか、当方、寡聞にして不分明です。
その健彦の顕彰碑、そして邦子の歌碑が、香取市の名前の由来となった香取神宮に建っています。昨日、久しぶりに邦子の名を思い出し、さらに、香取神宮は桜の名所としても有名なので、思い立って行って参りました。
香取神宮は、自宅兼事務所から車で10分ほどの所です。しょっちゅう脇を通るのですが、めったに立ち寄りません。境内が非常に広大なので、気軽に立ち寄れる場所ではないもので。昔は子供達のお宮参りや七五三、初詣によく行っていました(子供達が屋台のジャンクフードを目当てにしていました(笑))し、かつては薪能も開催されていて、拝見に伺ったりしました。
門前の駐車場から。
茶店、土産物屋、蕎麦屋などの並ぶ参道を抜けると、大鳥居。
大鳥居をくぐってふり返ると、こんな感じです。
大鳥居から50㍍ほどで、左手に奥宮方面へと分かれる分岐点があり、そこに今井夫妻の碑が経っています。いつも横目に通り過ぎていて、ちゃんと見るのは実は初めてでした。
健彦の頌徳碑。事績の紹介の中に、邦子の名も。
邦子の歌碑。
達筆すぎて判読に苦労するのですが、
いつきても 胸すかすかし 神宮の しつけき森に いろつく楓 邦子女史作紫草の中より
とあります。濁点が使われていませんので、「すかすかし」は「すがすがし(清々し)」、「しつけき」は「静けき」、「いろつく」は「色づく」でしょう。「紫草」は、昭和6年(1931)、岩波書店刊行の第三歌集です。
そういえば、香取神宮、桜と共に紅葉の名所でもあります。
碑陰記。それに依れば、碑の建立は昭和39年(1964)でした。
せっかくですので、久しぶりに本殿に参拝すべく、歩きました。ソメイヨシノ以外にも、しだれ桜や山桜系もみごとです。また、邦子が歌に詠んだ楓は、この時期、爽やかな新緑です。
楼門。元禄年間の建立で、国指定重要文化財です。
こちらも重要文化財の本殿。楼門と同時期の建立です。
この黒い社殿が珍しい、クール、ということと、広大な境内全域が原生林に囲まれ、マイナスイオンが溢れていることなどから、最近はパワースポットとしても人気です。昨日も、平日にもかかわらず多くの参拝客の皆さんがいらしていました。また、昨今は、少し離れた旧市街とセットのバスツアーなども組まれているようです。そちらは江戸~昭和戦前の街並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
本殿の右側を通って、禁足地を横目に、裏手へ。穴場のスポット、鹿苑があります。一時、鹿さんたちにとってあまりいい環境ではなかったのですが、最近はボランティアの方々のご努力で、改善されています。
鹿苑わきの茶店の展望台から。
昔は遠く利根川が見えたのですが、樹木が伸び、展望はきかなくなってしまっていました。しかし、桜はやはり見事でした。
来た道を引き返し、大鳥居をくぐって参道へ。このあたり、昔は旅館が何軒かあったそうで、その名残も。
これなどは、おそらく各地から仲間同士で参拝に来ていた講の札ではないかと思われます。
大正10年(1921)、歌人の柳原白蓮が、夫である福岡の炭坑王・伊藤伝右衛門の元から出奔し、宮崎滔天の息子・龍介と駆け落ちしました。その逃避行の際、ほんの一時期ですが、このあたりの旅館に潜伏していたそうです。手引きをしたのが、今井健彦だとのこと。残念ながら、その旅館は残っていないらしいのですが。
また、光太郎の師であり、同じ歌人同士、今井邦子とも多少の関わりがあった与謝野鉄幹・晶子夫妻も、明治44年(1911)初夏、銚子から船で利根川を遡上、香取神宮に参拝しています。その船着場があった津宮(つのみや)地区にあった旅館に夫妻は宿泊。そこには晶子歌碑も建立されています。
ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
私は私の製作する他の芸術が若し彫刻的に傾いて来る様な事があつても驚きはしないだらうと思ふ。又悲しまないだらうと思ふ。私の思想、私の性格、私の想像、私の欲望にかなり粘土のにほひのする事は、うすうす私自身でも感づいて居る。
散文「大正博覧会の彫刻を見て所感を記す」より
大正3年(1914) 光太郎32歳
大正3年(1914) 光太郎32歳
夙に光太郎の詩は「彫刻的」と評されてきました。語を立体的に構成し、一つの作品として仕上げていく手法などに対してです。
この短い一文にも、同様の手法が使われているように思えます。まるで塑像に粘土を貼り付けていくように、正面から「私の思想」、サイドには「私の性格」、後ろに回って「私の想像」、下の方に「私の欲望」……というふうに。