一昨日の横浜行レポート、続きです。
神奈川近代文学館さんでの特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」拝観後、車をみなとみらい地区に向けました。次の目的地は、横浜美術館さん。お目当ては、「ヌード NUDE ―英国テート・コレクションより」展。
さらにお目当ては、この展覧会の目玉、ロダン作の「接吻」の大理石像。
これのみ、写真撮影が可でした。
想像していたより大きく、見上げるような高さでした。後で調べたところ、パリのロダン美術館にあるオリジナルは180センチほどだそうで、レプリカであるこちらもほぼ同じでしょう。それがさらに展示台に乗っています。
ブロンズの「接吻」は、平成24年(2012)、上野の国立西洋美術館さんで開催された「手の痕跡 国立西洋美術館所蔵作品を中心としたロダンとブールデルの彫刻と素描」展などで拝見したことがありまして、そちらは高さ90センチほど。
それから、ブロンズにはブロンズの量感の良さがありますが、それとは異なる大理石の質感もまた魅力的だと思いました。
光太郎は、明治43年(1910)の散文「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」中で、次のように述べています。
RODIN の胸像の青銅(ブロンズ)の色は色ばかり見てゐても快感を与へられる。そして、その材料の色と彫刻の内容とがぴたりと出合つて居る。 ST.JOHN は青銅で、接吻は大理石であつた。
「ST.JOHN」は聖ヨハネ。おそらく明治13年(1880)作の「説教する洗礼者ヨハネ」でしょう。たしかにこれが大理石だと、かなりの違和感があるように思えます。
ちなみに光太郎も、大理石彫刻を手がけています。
残念ながら、現物の現存は確認できていませんが、大正6年(1917)、実業家・図師民嘉の子息・尚武に依頼された「婦人像」(仮題)がそれです。
大正五、六年頃か、落合にいた実業家の息子が、美人の、西洋人の写真を持って来てね、それをどうしても大理石で作ってくれっていううんだな。その写真がぼやっとした芸術写真でね。僕は面白くって作りかけたけれど、どうしても出来上らない。随分重いものだったけれど、それを欲しくて仕方がなくて、出来上らないうちに自動車で来て持っていってしまった。はじめに金を貰っていたんだけれど、出来上らなかったんだから、といってあとでその家にお金を返しに行った。そしたらちょうど息子さんが居なくてね。お母さんが出て来た。ところがお母さんは知らないんだね、そんなことでお金を使っていたってことを。それは何か映画女優か何かの写真だったらしいんだが、それであとで散々叱られた、とその息子が書いてきたことがあった。
(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)
そのドラ息子(笑)に宛てた書簡も残っています。
まず、大正6年(1917)3月31日付。
拝啓 先日は大変懇ろな御手がみ頂戴いたし小生も稍心を安んじ申候 あれ以来石屋に再三の催促をいたし漸く両三日前石が到着いたしました 今度の石は材質殊の外よろしく 一寸パリアンマーブルの面影あるような気がいたします 全く東京では求めがたき品と信じます それで大変嬉しくおもつて居ります 職工は三日から参りまして點模(ホンダン)にかかります 其を督励して出来るだけ早くしかし充分に心を尽して私が仕上げます 今月中には大てい御手許にさし上げられるかと思つて居ります 今日は他の近作と同時にあの原型も一緒に写真にとりました 写真が失敗でなかつたら御覧に入れます (写真の技術が小生は大下手故心配して居ります)
(略)
さらに同年4月28日付。
(略)
例の大理石はあれから仕事いたして居りますがも少し運びました上自分のアトリエに持ち来りて最後の仕上げをいたす心算で居ります 今月も最早三四日になりましたが完成はいま少々御猶予をねがはねばならぬ事まことに御気の毒に存じます
(略)
今少し仕事の運びたる上アトリエに持ち来り 貴下に一度見て頂いてから最后の仕上げをいたしたく存じて居りますゆゑ其節は一寸御報告申上げるつもりでございます よろしく御承知置き下さるやうお願ひ申上げます
(略)
光太郎、粘土で原型を作り、その上でそれを大理石に写すという手法で制作していたようです。荒削りには職人さんの手を借りていたようで、そういうこともやっていたんだ、と興味深く感じました。
おそらくその粘土での原型が左下。写真のみ現存しています。
右は、前年から取り組んでいた歌人の今井邦子の像。こちらも大理石に写すつもりでしたが、やはり実現しませんでした。こちらも現物は現存が確認できていません。どこからか、ひょっこり出てこないものかと思っているのですが……。
閑話休題。
「ヌード NUDE ―英国テート・コレクションより」を拝観した後、同時開催の同館コレクション展も拝見しました。藤田嗣治、岸田劉生、河野通勢ら、光太郎と交流のあった作家の作品も含まれており、ラッキーでした。
皆様もぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
「来るべきところへ来た。行くべきところへ行かないでは居ないだらう。」 これが正直な、私自身の現状に対して私の有つてゐる心である。
散文「文展第二部に聯関する雑感」より 大正2年(1913) 光太郎31歳
この後、延々と自分が歩いてきた道について、こうであった、そして今後はこうなるだろう、といった言が続きます。どうも翌年に発表した詩「道程」の原形(初出形)102行ロングバージョンのさらに原型のような気がします。
今日は長くなりましたので、もう引用する気力がありません(笑)。いずれまた何かの機会にご紹介します。