光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で、毎年光太郎の忌日・4月2日に花巻としての連翹忌を開催して下さっています。

今年も花巻市さんの広報紙『広報はなまき』3月15日号に案内が出ました。

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当方、当会主催の連翹忌の集いを東京日比谷松本楼さんでで開催する都合上、そちらには参加できませんが、お近くの方、ぜひどうぞ。

例年、終了後に地元紙やテレビのローカルニュースなどで報道されています。



『広報はなまき』といえば、今号の表紙は、やはり戦後に花巻で暮らした僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観を主人公とした「第42回花巻市民劇場公演 多田等観物語 日が昇る 観音山に帰りたい」の様子でした。

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等観は、同時期に隣村にいた光太郎と交流があり、お互いの草庵を行き来したりもしていました。

そんなわけで、光太郎も登場。

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おそらく中央の恰幅のいい方が光太郎でしょう。

となると、メインの写真で、等観の後ろにいる右の方も光太郎のようです。

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平成16年(2004)初演の再演のようで、さらなる再演、さらには等観ゆかりの千葉での公演などもしていただけるとありがたいのですが……。

それにしても、連翹忌にしてもそうですが、花巻の皆さんの地元愛には頭が下がります。地方都市はそうあるべきですね。


【折々のことば・光太郎】

今の日本では、空碧くして水白き自然の緻密な写生画を目して真面目な作と為すのである。してみると、其の真面目な作といふものは私等の魂の切に欲求する所と非常に違つたものになるわけである。

散文「文部省展覧会第二部私見」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

光太郎が求めているものは、作品に表される個々の作家のやむにやまれぬ衝動――その絵をどうしてもそう描かざるを得なかった作家個人の内面の表出、自然に対する見方――とでもいったものでしょうか。

文展に並ぶ作品には、黒田清輝ら一部の例外を除いて、そうしたものが感じられない、というのです。