2日続けて都内に出ておりました。

まず一昨日、光太郎の母校である荒川区立第一日暮里小学校さんへ。この春卒業の6年生に、ゲストティーチャーとして光太郎の話をさせていただきました。同校では代々6年生が、「先輩 高村光太郎に学ぶ」というテーマで、光太郎に関する調べ学習を行っています。

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1月にも同校に参りまして、やはり6年生の図工の授業を拝見しました。光太郎のブロンズ代表作「手」にちなみ、卒業記念に自分の「手」を粘土で制作するというものでした。

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その際の作品が完成しており、廊下に展示されていました。

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力作ぞろいでした。いい記念になるでしょう。

それから、「先輩 高村光太郎に学ぶ」ということで、やはり一人一人が作成したレポートも完成していました。

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ざっと拝見しましたが、それぞれに異なる切り口で調べたことをまとめていて、こちらも力作ぞろいでした。これだけのものを作るとなると、指導に当たられた先生方も大変だったろうと思われました。

来週22日が卒業式だそうで、最後に光太郎についての話をしてくれ、とのことで、前述の「手」の制作の際にもゲストティーチャーを務められた、太平洋美術会・高村光太郎研究会に所属されている坂本富江さんともどもお招きを頂きまして、6年生の教室で、児童の皆さんの前に立たせていただきました。

まずは当方。持ち時間が15分くらいということでしたし、既に児童の皆さんはそれぞれに光太郎について詳しく調べてレポートも完成しているので、今さら光太郎は何年何月に生まれ、こんな業績を残し……といった話をしても仕方がないと思い、パワーポイントの短いスライドショーを作り、クイズ形式で進めさせていただきました。題して「知ってトクする 光太郎クイズ」(笑)。

光太郎の偉人らしからぬ意外な一面、子供にも親しみを持てそうなエピソードなどを問題にし、最後は同校の校訓でもある「正直親切」――元々は、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外太田村の山口小学校に校訓として贈ったものですが――にからめてまとめました。児童の皆さん、なかなかに食いついてくれました(笑)。

続いて、坂本さんにバトンタッチ。坂本さんは、以前に智恵子の母校、二本松市立油井小学校さんでも披露なさった自作の紙芝居を使われました。

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その後、児童の皆さんから、光太郎に関する質問を受け付ける時間。すると、小学生と侮るなかれ、鋭い質問が出ました。例えば、光太郎木彫の「白文鳥」(昭和6年=1931頃)の「解釈」。

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こちらは光太郎が「作品」としてきちんと制作した木彫のうち、ほぼ最後のもの。このころから智恵子の心の病が顕在化し、その看病に追われたり、危なくて彫刻刀を出しておけなかったりといった理由から、木彫の制作が途絶します。そこで、「文学的」解釈として、この一対の文鳥は、光太郎智恵子の「肖像」でもあるのでは、という説が唱えられています。児童の皆さん、何かの資料でそういう話を読まれたのかも知れませんし、逆にそういう予備知識なしの直感的な感想かも知れませんが中々鋭い意見が出て、たじたじとさせられました。

「片方が片方をにらんでいるように見える」とか「片方が片方をうらやんでいる、またはねたんでいるように見える」だそうで、どうでしょうか、と。なるほど、そういわれてみると、そうも見えます。

光太郎は、この時期の彫刻では「物語性」を可能な限り排除し、純粋な造形美のみを表現する方向で取り組んでいました。学生時代に手がけた塑像などでは、いわくありげなポーズや謎めいた題名で、「物語性」を前面に押し出していましたが、それではいけない、と方向転換しています。

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しかし、心のどこかでは、この白文鳥一対は自分たち夫婦、という意識はぬぐえなかったのではのではないでしょうか。だから、児童の皆さんが感じたように、「片方が片方をにらんでいるように」とか「片方が片方をねたんでいるように」見えてしまうのかもしれません。

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ただ、この「白文鳥」、二体をどう配置するかによって、見え方がかなり異なってきます。昨今は、小さい雌を左、大きな雄を右に、上記のように配置することが多いのですが、それが正しいのかどうか、何とも言えません。

光太郎生前唯一の彫刻個展、昭和27年(1952)の中央公論社画廊での「高村光太郎小品展」図録ではこんな感じ。左右が逆ですね。こう配置すると、2羽がしっかりと寄り添っているように見えませんか。

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それから光太郎が歿した翌年(昭和32年=1957)の「高村光太郎遺作展」図録では、こうなっています。

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この配置だと、大きい方の雄は、たしかにあらぬ方を向いているように見えますね。これが無意識のうちに表された光太郎自身の智恵子へのスタンスという見方、あながちこじつけともいえないかもしれません。児童の皆さん、そこまで理論的に考えているわけではなさそうでしたが、逆に感覚的にそう捉えていたのでしょう。そういう見方も有りだよ、という話はしておきました。

来週卒業していく6年生の皆さんですが、光太郎智恵子への関心、これで終わってしまうことなく、今後とも持ち続けていってほしいと思いますし、彼等から学んだなにがしかを、今後の人生行かして行ってほしいものです。


つづいて昨夜、錦糸町のすみだトリフォニーホールさんで開催された演奏会「第29回 21世紀日本歌曲の潮流」を拝聴して参りました。

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以前から光太郎詩に曲をつけた作品を発表なさっている、名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏の「樹下の二人」が演奏されました。

この曲は、昨年、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「震災復興応援 智恵子抄とともに~野村朗作品リサイタル~」において、メゾソプラノの星由佳子さん、ピアノで倉本洋子さんによる演奏で初演されましたが、今回は以前から野村氏の「連作歌曲 智恵子抄」を演奏されている、バリトンの森山孝光さん、ピアノで森山康子さんご夫妻による演奏でした。

女声と男声の違いもありましたし、それからおそらくキーも変えてあったようで、またかなり違った印象でした。現代音楽というと、他の作曲家の方の作品でそういうものがありましたが、ひねった和音構成や変拍子などを多用し、めまぐるしく転調させたり、あえて無調にしたりするなど、先鋭的な作品が多い印象ですが、野村氏のそれはメロディーラインの美しさを前面に出す、いわば直球勝負。素人の当方には、そちらの方が心地よく感じられました。もっとも、いつも安心して聴いていられる森山ご夫妻の力量に負う部分も多いのですが。

野村氏、体調を崩されているとのことで、昨夜は会場にはいらっしゃらず、森山ご夫妻もお二人の出番の終了後にすぐお帰りになったとのことで(岐阜にご在住です)、終演後にお会いできなかったのが残念でしたが、野村氏、何とか連翹忌には復調して参加したいとおっしゃっていましたので、そうなることを願っています。


【折々のことば・光太郎】

強引さがない。よく禅僧などの墨せきにいやな力みの出てゐるものがあるが、さういふ厭味がまるでない。強いけれども、あくどくない。ぼくとつだが品位は高い。思ふままだが乱暴ではない。うまさを通り越した境に突入した書で、実に立派だ。

散文「黄山谷について」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

「黄山谷」は中国北宋時代の書家・黄庭堅。光太郎が最も愛した書家の一人です。書に限らず、詩歌や彫刻でもそうですが、光太郎の芸術評は同時に自らが求めるそのものの在り方を端的に示しています。まさに光太郎の書も、このようなものでした。

また、昨夜聴いた野村氏作曲の「樹下の二人」にも通じるところがあるように思われました。