新刊情報です。
2018年4月1日 中村稔著 青土社 定価2,800円+税
日本近代芸術の扉を開いた巨人の生涯に迫る
西欧留学体験、『智恵子抄』には描かれなかった智恵子との壮絶な愛、太平洋戦争とその後の独居生活…。その魂の軌跡をとおして生涯と作品に迫る、画期的にして、決定的な高村光太郎論。
目次
第一章 西欧体験
第二章 疾風怒濤期――「寂寥」まで
第三章 『智恵子抄』の時代(その前期)
第四章 「猛獣篇」(第一期)の時代
第五章 『智恵子抄』(その後期)と「猛獣篇」(第二期)
第六章 アジア太平洋戦争の時代
第七章 「自己流謫」七年
あとがき
明治末、光太郎20代の海外留学期から、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活までを追った評伝で、全534ページの大作です。根底には光太郎への限りないリスペクトを持ちつつも、批判すべき点は批判し、その上一貫してブレない光太郎観が展開されていて、534ページですが、当方、ほぼ一気に読み通しました。そのすべてに首肯できるわけではありません(戦後、花巻郊外太田村の粗末な山小屋で送った7年間の蟄居生活を「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとしている点など)が、「なるほど」と思わせる部分が多い好著です。
特徴として、氏自身も本書中で言及されていますが、光太郎詩文の引用部分が多いことが挙げられます。引用の切り貼りだけではどうにもなりませんが、どういった作品を引用するかの適切な判断と、引用部分に対する的確な評において、本書は成功しています。
評伝というもの、やはり、本人の言にあたるのが一番です。しかし、それをそのまま文字通りに鵜呑みにするのでなく、行間を読み、裏側を読むことも必要です。また、本人の言だけでなく、周辺人物のそれにも目を向ける必要もあります。中村氏は、光太郎実弟・豊周や、太田村に光太郎を呼び寄せた佐藤勝治らの回想も効果的に引きつつ、論を展開されています。
驚くべきは、中村氏、失礼ながら昭和2年(1927)のお生まれで、御年91歳。それでいて、同じ青土社さんから、一昨年には『萩原朔太郎論』(548ページ)、『西鶴を読む』(313ページ)、昨年には『石川啄木論』(528ページ)、『故旧哀傷: 私が出会った人々』(286ページ)と、次々に新刊を刊行されています。おそらくこれらも書き下ろしでしょう。
一昨年、信州安曇野の碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として、記念講演をさせていただいたのですが、その日に中村氏が同館にいらっしゃいまして、お話をさせていただきました。
その際にも今回の光太郎論を含む新著をご執筆中で、一気に刊行なさるというお話でした。失礼ながら、「無理でしょう」と心の中で呟いていたのですが、本当に実現されてしまいました。脱帽です。
さらに驚くべきは、「あとがき」によれば、第7章の部分はもっと長かったのを、他の章との均衡を図るため圧縮、さらに本書に収録されなかった、光太郎最晩年の再上京後についても既に書き上げられていて、本書とは別に刊行するおつもりだということ。
そちらにも期待したいと存じます。
【折々のことば・光太郎】
書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。
散文「書の深淵」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳
昭和20年(1945)から7年間の、花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、光太郎は彫刻らしい彫刻は作りませんでした。その代わりに(ただし、「代償行動」という意味に非ず)書を多く書きました。もともと能筆だった光太郎の書が、太田村での7年間でさらに進化を遂げ、書家の石川九楊氏に「「精神」や「意思」だけが直裁に化成しているような姿は、他に類例なく孤絶している。」、「高村光太郎の書は、単なる文士が毛筆で書いた水準をはるかに超えた、もはや見事な彫刻である。」と言わしめました。
思うに光太郎にとっての書とは、詩歌によって追い求めてきた言語の美としての部分と、彫刻によって成し遂げんとした造形美の部分とを併せ持つ、究極の芸術だったのかもしれません。