日本経済新聞の人気コラム「私の履歴書」。今月は宗教学者の山折哲雄氏で、先週7日(水)、8日(木)掲載分で、昭和20年(1945)8月10日(実に終戦5日前です)の花巻空襲について書かれ、その中で、光太郎についても触れられていました。

その後、10日(土)、11日(日)掲載分で、何と、やはり花巻で、既に郊外旧太田村の山小屋に逼塞していた光太郎と遭遇されたご体験が記されていました。

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光太郎、肉屋で買い物をしていたそうです(笑)。時折、花巻町に出てくることがありましたので、有り得る話です。さらに、光太郎歿後、氏が旧太田村の山小屋に行かれた際の印象なども書かれていました。


そして昨日掲載分。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」がらみでまた光太郎。

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しかし、これには閉口しました。

「雨ニモマケズ」、最初に賢治が手帳に記した際、後半の一節に、「リノトキハナミダヲナガシ」と書いた部分が、後世、「リノトキハナミダヲナガシ」と改変され、現在もこの形で流布している出版物等も数多く存在します。


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以前から山折氏は、この「書き換え」を光太郎の仕業として、あちこちでそう発表されていました。

確かに、昭和11年(1936)、光太郎がその碑文を揮毫し、花巻に建立された碑には、「リノトキハナミダヲナガシ」と刻まれています。

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しかし、光太郎はあくまで送られてきた原稿を元に揮毫しただけであって、「」→、「」の改竄には関わっていないはずです。

光太郎が揮毫する以前、昭和9年(1934)9月の『岩手日報』に「雨ニモマケズ」が掲載された段階で、既に「」→、「」の改竄が行われています。つまり、少なくとも光太郎が碑文を揮毫した時点では、この部分、世上では「ヒデリ」として流布していたわけです。

それを、いくら碑文を揮毫したからといって、光太郎の仕業にされてはたまりません。

山折氏のこの決めつけに関しては、いろいろと反駁も出ているのですが、それらを眼にされていないのか、あるいは一度こうと思い込んだらもはや修正できないのか、しようとしないのか、何とも言えませんが……。

このブログでは、あまり批判めいたことは書きたくないのですが、『日本経済新聞』さんという、かなり影響力の大きいメディアに載った記事ですし、実際、いろいろな方のブログ等で、既に昨日の記事をもとに「そうだったのか」的な記述が散見されます。

困ったものです。


【折々のことば・光太郎】

この頃は書道がひどく流行して来て、世の中に悪筆が横行してゐる。なまじつか習つた能筆風な無性格の書や、擬態の書や、逆にわざわざ稚拙をたくんだ、ずるいとぼけた書などが随分目につく。

散文「書について」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

書においても独特の、しかしすばらしい作品の数々を遺した光太郎の、最も有名な書論、冒頭部分です。

ひっくり返せば、自分は決してこういう書は書かないぞ、という宣言ですね。