昨日は3.11でした。
午後、地上波フジテレビさんで放映された「FNN3・11報道特番 その避難は正解か!?」を拝見しました。その中で、光太郎ゆかりの宮城県女川町の、七十七銀行さん女川支店の件を取り上げていました。津波到達直前から、一気に18㍍の津波が押し寄せ、さらに引き波となって町を呑み込んでていく動画が流れ、涙を禁じ得ませんでした。
あの中に、貝さんが居たのか、と。
貝(佐々木)廣さん。当時、女川光太郎の会事務局長を務められていた方です。
昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を執筆するため、光太郎が女川を訪れたことを記念し、光太郎文学碑が女川の海岸公園に建てられたのが、平成3年(1991)。その中心となって活動され、その後は碑を建てて建てっぱなしでなく、毎年、光太郎が三陸に向けて東京を発った8月9日に、「女川光太郎祭」を開催し続けられたのも貝さんでした。
連翹忌にも20数回ご出席下さり、平成18年(2006)には、東京日暮里で開催された「高村光太郎歿後50年記念 高村智恵子生誕120年記念 光太郎・智恵子・フォーラム」で、女川での光太郎顕彰の取り組みをご紹介下さいました。記念講演は当会顧問・北川太一先生、司会は当方でした。
「こーんなでっかい文学碑を建てたんですよ」と、ステージを走り回っていた貝さん。
7年前の昨日、その貝さんは、津波に呑まれ、還らぬ人となってしまいました……。
その貝さんを含む、町内で亡くなられた方々854名(実に当時の人口の1割です)すべての名が刻まれる慰霊碑が建設されるそうで、テレビ朝日さん系のニュースで報道されていました。
東日本大震災から7年 宮城・女川町 復興への思い
東日本大震災から11日で7年です。宮城県女川町では、新たに建立が進む慰霊碑に地元の中学生が復興への思いを書いた石のプレートを積み上げました。女川町では、高台に建設中の新庁舎の敷地に町で犠牲になった854人の名前を刻んだ慰霊碑を建てる予定です。10日は、卒業式を終えた女川中学校の3年生46人が慰霊碑が建てられる場所を訪れ、復興への思いを書いた石のプレートを積み上げていきました。
家族4人を亡くした鈴木翔さん:「身内が亡くなっているんです、震災で。1人見つかっていない。悲しいという思いもありながらも、自分はしっかり生きていかないといけない。それを置く瞬間に(感じて)慰霊碑を全国のみならず、世界の皆さんに見てもらって、我々の思いを見てほしい」
東日本大震災による死者は1万5895人で、今も2539人が行方不明のままです。
ローカル局、仙台放送さんでも、一昨日、報道されました。
震災犠牲者思い 石板を慰霊碑に 宮城県女川町
東日本大震災から11日で7年です。女川町では、地元の子供たちが復興や鎮魂の思いを書いた石版を慰霊碑の一部として積み上げました。
女川町では高台に建設中の町役場の敷地内に震災により町内で亡くなった約850人の名前を刻む慰霊碑を建てる計画です。
10日は、午前中に卒業式を終えたばかりの女川中学校の卒業生46人が参加して、復興や鎮魂の思いを書いたブロック状の石版を慰霊碑の周りに積み上げていきました。
石版には、
「安らかにお眠り下さい」、
「女川は今復興の道をたどり始めています」
といった町民や子供たちのメッセージが書かれています。
男子 「見守ってほしいと、石に思いを込めました」
男子 「亡くなった方々が天国で安らかに休めるようにと気持ちを込めて石を積みました」
女川町では、11日に訪れた人たちにも石版へのメッセージの書き込みを受け付ける特設ブースを設ける予定です。
女川中学校さんの卒業生諸君が、石版を積んだそうですが、来年度成人を迎える代の彼等の先輩たちは、このブログでたびたびご紹介して参りました、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」プロジェクトに携わってきました。
その当時(当時は統合前で女川一中)の先生が、木曜日にNHKさんの番組で紹介されます。
あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 阿部一彦さん」
NHK総合 2018年3月15日(木) 10時50分~10時55分宮城県女川町の中学校教師だった阿部一彦さんは、津波の悲劇を後世に伝え、100年後の命を守るために、生徒と協力しながら、津波が到達した地点に石碑を建て続けている。
5分間番組ですが、これまでにも、「いのちの石碑」がらみで女川中の生徒だった勝又愛梨さん、毎年の女川光太郎祭の際に厄介になっている宿泊施設・EL FARO(エル ファロ)さんを経営されている佐々木里子さん が取り上げられました。
今回取り上げられる阿部一彦さんは、昨年『朝日新聞』さんでも大きく紹介されました。
ぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
飛鳥朝の仏の魅力は多くの人のいふ如き調和温恭の境にあるのではなくて、実は不協和幽昏の美に根ざしてゐる。この釈迦像の仏らしからぬ眼を見、口を見、顎を見れば、しかもその胴体が平然と北魏の衣紋に包まれてゐる不思議を見れば、われわれ後代の造型家は、上代作家の大胆と自由とに驚く。
散文「法隆寺金堂釈迦三尊像」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳
美術出版社刊行の『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』のために書き下ろされた文章です。
そちらに載った法隆寺釈迦三尊像の写真がこちら。
今気が付きましたが、この像は右手が「施無畏(せむい)」の印になっています。光太郎ブロンズの代表作、「手」(大正7年=1918)、そして最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の左手の形がそれです。
「施無畏」とは、仏・菩薩が衆生(しゆじよう)のおそれを除き、救うこと。当方、仏教徒というわけではありませんが、東日本大震災で亡くなられた皆さんのみ魂が、彼岸で釈尊や観世音菩薩から、「何も畏れることはない」と、救済されていると信じたいものです……。