このブログ、なるべく早くご紹介したい件を先にしています。イベントやテレビ放映情報等は時宜を見て、早すぎず遅すぎぬ時期に。新刊情報、新聞雑誌で光太郎智恵子光雲の名が出た場合などもなるべく直後に、という感じで。逆に速報性の必要ない件は後回しにすることがありまして、今回の件がまさにそうです。

ひと月ほど前、埼玉の大宮で大学時代の同窓会があって参加して参りました。大宮ですと、公共交通機関の場合、夜9時過ぎには出ないと千葉の田舎にある自宅兼事務所に帰れません。翌日は朝からまた別件があり、泊まるわけにも行きません。となると、一次会しか参加できない状況で、それも惜しい気がし、自家用車で参りました。当然酒は飲めませんが、当方、もともとあまり酒は好きではありませんし、最近とみに飲酒の習慣が無くなっていますので、それは苦になりません。

そこで、その同窓会の前に、会場の大宮からそう遠くない、同じ埼玉県の北葛飾郡杉戸町に立ち寄りました。前々から一度行ってみたいと思っていたところでしたので。なぜなら、ここが光太郎のルーツに関わる地だからです。

どういうことかというと、光太郎の父・高村光雲の実母(つまり光太郎の祖母)・すぎ(通称・ます)が、かつてこの地にあった東大寺という寺院(ただし、神仏混淆の修験道のそれ)の出なのです。

光雲の父・中島兼吉(通称・兼003松)は、江戸で香具師(やし)を生業としていました。明治32年(1899)に82歳(おそらく数え年)で歿していますので、文化14年(1817)頃の生まれ。最初の妻との間に、巳之助という子がいましたが、程なく離縁、嘉永3年(1850)頃にすぎと再婚し、同5年(1852)に光雲が生まれています。巳之助は光雲より7歳年上だったそうです。後に腕のいい大工となり、明治22年(1889)、「佐竹っ原」と呼ばれていた現在の新御徒町あたりに、見せ物小屋を兼ねた張りぼての大仏が作られた際、光雲ともどもこのプロジェクトに参加しています。くわしくはこちら

明治になって徴兵令が布かれた際、長男は徴兵免除だったのですが、光雲は次男。そこで、師匠の高村東雲の姉・悦が独り身で居たそうで、その養子となって長男といういわば免罪符を得ました。そのため、高村姓となったわけです。

閑話休題。兼吉とすぎの結婚については、おそらく、香具師だった兼吉が、各地の神社仏閣などの祭礼、縁日などに関わっていたために知り合ったのではないかと思われますが、いろいろわからないことだらけです。光雲や光太郎、それから光太郎実弟の豊周の回想にいろいろ書かれていますが、どれもあやふやな伝聞にもとづくもののようです。第一、すぎ自体、東大寺住職・菅原氏の血縁であることは確かなようですが、何年何月に誰の子として生まれたのかなど、今ひとつはっきりしません。光雲の回想には「東大寺の菅原道甫という住職の娘」とありますが、年代がまるで合わないのです。菅原氏は明治になって東氏と改姓、その後裔の方の書いたものによれば、すぎは道甫の娘・ますの子となっています。すぎの通称「ます」は、母の名を継いだということでしょう。当会顧問の北川太一先生もこの説を採られ、『高村光太郎全集』別巻収録の家系譜はそうなっています。

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ところが、埼玉の郷土史家の方が書かれたものでは、また違う説が唱えられています。

いずれにせよ、光太郎の祖母・すぎ出生の地ということで、行ってみました。

事前の調査では、東大寺という寺院はもはや残っていないそうでしたが、当時の住職等の墓所が残っているということでした。また、隣接していた永福寺さんという寺院は今も健在とのこと。そちらが東大寺の法燈を嗣いでいるそうです。

さて、永福寺さん。杉戸町の下高野地区です。

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山門やら鐘楼やら、そして本堂も、なかなか立派なたたずまいでした。

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本堂には「高村」の千社札。「まさか、関係ないよな」とは思いましたが……。

敷地の一角に、「西行法師見返りの松」。

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源平の争乱により焼失した奈良東大寺の大仏再建勧進の途上、西行法師がこの地で行き倒れ、村人に手厚く看病されたという伝説が残っています。のちに東大寺の重源上人もここを訪れ、その話を聞きいて感動し、西行が運び込まれたお堂に東大寺の寺号を許したとのこと。

ところがその東大寺は、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となってしまいました。神仏混淆の修験道系だったそうで、そうした寺院は廃寺の憂き目に遭うことが多かったそうです。当時の住職・道貞(ますの甥のようです)が、その措置に逆らったあげく捕縛され、八丈島送りになったとも伝えられています。明治初年にはまだ島流しの刑があったのですね。

ちなみに文久年間と思われますが、高村東雲に弟子入りする前の10歳頃の光雲が、丁稚奉公の予行演習のような形で東大寺に一年ほど預けられていたそうです。

永福寺さんの北側に、広大な墓地があります。その一角に、「東氏累代之奥津城」ということで、東大寺の人々の墓所が。神仏混淆らしく、鳥居も建てられていました。

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右上の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、開祖・西行、二世・重源以下、二十七世・道円までの名が刻まれています。すぎの祖父と思われる二十五世・道甫の名もありました。


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左上の画像が、すぎの兄と思われる二十九世・道顕と、その子である三十世・道貞の墓。道貞は八丈島から帰ったあと、東と改姓し、神仏分離ということで、神官となったそうです。

この墓所は、男女で位置が異なり、女性陣の墓石は少し離れた一段低いところにかたまって建てられています(下の画像)。兼吉に嫁いだすぎの墓はありませんが、すぎの母・ますの墓なども含まれているのでしょう。どれがそれかは特定できませんでしたが。

すると、そのかたわらに、一本のソテツの木(右上の画像)。杉戸町内には、道貞が八丈島から持ち帰ったというソテツが遺されているそうで、これもそうなのか、或いはその木から株分けでもしたものかもしれない、と思いました。

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それぞれの墓石に、光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。


ちなみにすぎ、そしてその夫・中島兼吉(つまりは光雲の両親・光太郎の祖父母)の墓は、台東区の涼源寺さんというお寺にあるそうで、いずれそちらにも行ってみたいと思っております。


【折々のことば・光太郎】

日本の彫刻は埴輪に帰らなくてはならない。

講話筆録「日本の美」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

棟方志功や岡本太郎などとは異なり、光太郎は縄文の美を認めませんでした。ごてごてしていて日本人の感覚ではない、大陸的だと。それが、古墳時代の埴輪には、簡素な明るさがあってすばらしい、としています。ここにも光太郎の彫刻観の一端が見て取れます。