ぽつりぽつりと、新聞各紙で光太郎の名が。それぞれそれ一つをネタにブログ記事にするのはきついなと思っていましたら、たまってしまいました。

まずは先月28日の『神戸新聞』さん。 

「今度は支える立場に」 大学へ進む高3生の目標

 瑛太の部屋の扉には、英語の詩が貼ってある。詩人・高村光太郎の代表作の英訳で、職員が手書きして贈ったエールだ。
 〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉
 高校3年。大学進学を目指して1年の時に部活をあきらめ、学費を稼ぐためにアルバイトに励んだ。最初はすし店。「常連さんなど幅広い年代の人と出会い、いろんな考えに触れられた」。学びは多かった。
 一方、仕事を終えて帰宅すると午前0時を過ぎることも。通学には1時間20分かかるため、午前6時50分に尼学を出る生活。すし店は半年で辞め、その後はプール監視員や飲食店員として働いた。
 その中で勉強時間を確保してきた。
 職員も応援した。瑛太が勉強の息抜きにバドミントンをしようとすると、横に忍び寄ってつぶやいた。「本当にそれでいいんかなー」
 瑛太が笑う。「1回打った瞬間に横にいて、ちょっとくらい息抜きさせてよって。いつもプレッシャーの目があり、勉強するようあおってくれた」
 道は拓けた。昨秋、学費を一部免除してくれる山口県の大学に合格。神戸の財団から返済不要の奨学金を受けることも決まり、新生活に期待を膨らませる。
 将来について尋ねると、真っすぐな目で語った。「経験した自分だからこそ、力になれることがある。児童養護施設で働きたい」。いったんは施設に勤めてから、数学の教師を目指すという。
 尼学に来てから、精神的にまいった時期がある。外に出られなくなり、バイトに行けなかった。高校へは職員に送迎してもらい、何とか通った。「しんどい時に寄り添ってくれた。今度は支える立場になりたい」(敬称略、子どもは仮名)
(記事・岡西篤志、土井秀人、小谷千穂、写真・三津山朋彦)


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執筆から100年以上経った「道程」ですが、こうして現代の若者へのエールとしても現役で機能しているのですね。

ちなみに英訳は「No path lies before me. As I press on. Behind me a path appears.」だそうです。


続いて、今月2日の『毎日新聞』さん北海道版から。 

書学習の集大成 道教育大旭川校書道研、きょうから /北海道

 卒業式を前にした道教育大旭川校書道研究室の「第64回卒業書作展」が2日、旭川市民文化会館で始まる。あふれる躍動感、ストレートな表現、切れ味ある線質、温かみのある筆力といった個性あふれる書学習の集大成が会場を飾る。  
 出展者は、長田さくらさん、小野寺彩夏さん、平木まゆさん、柿崎和泉さんの4人。それぞれが平安時代の藤原行成から唐代の顔真卿の書まで多彩な臨書の卒業論文作品2点と、卒業書作展作品の詩文書2点、漢字創作1点を出品した。
 書作展用の作品では、高村光太郎の詩の一節を題材にした長田さんの作品(縦2・4メートル、横3・6メートル)など、研究室の持ち味でもある大作の詩文書がそろった。指導教官の矢野鴻洞教授も賛助出品している。
 7日までの午前10時~午後6時(7日は同4時まで)。入場無料。【横田信行】

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やはり光太郎詩、若い人たちの心の琴線にも触れるのでしょうか。ただ、画像にうつっているのは宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」の一節ですが(笑)。


それから、『朝日新聞』さん。先月27日の夕刊です。 

(アートリップ)御堂筋彫刻ストリート(大阪市) 名品の数々、歩く目線で 朝倉響子、ジョルジョ・デ・キリコほか作 大阪市

 会社員が足早に行き交う平日の御堂筋。視線を感じた先に、すました表情の女性像がこちらを見ていた。プレートには「朝倉響子 ジル」の銘。通りにはほかにもロダン、ジョルジョ・デ・キリコ、高村光太郎らの趣の異なる彫刻合わせて29体が並ぶ。
 これらは、1991年に始まった大阪市と建設省(当時)による、文化的な街づくりを目指した事業「御堂筋彫刻ストリート」の一環。沿道の老舗企業から募った寄付で設置された。
 彫刻の全体テーマは「人間讃歌(さんか)」。一流作家による、人体をモチーフにした作品に限定し、景観を統一するため、高さは台座を含めて2メートル以内に制限した。結果、巨匠たちの裸婦像や着衣像、抽象表現作品が、歩く人々の目線で見られるように並んだ。
 しかし、試練の時代もあった。バブルがはじけ、企業の再編などで周辺ビルには空室が増加。土日になると人通りが少なくなり、放置自転車で彫刻も埋もれた。「存在が忘れられ、誰も評価しなかった」と話すのは、2000年以降の設置審査委員長を務めた、関西学院大名誉教授の加藤晃規さん(71)。
 市が自転車の即時撤去を開始すると、再び名品が姿を現した。現在、周辺にはホテルなどが入る高層ビルが建設中だ。加藤さんは「作品は潤いのある街並みの一つ。にぎわいが戻れば」と目を細めた。(吉田愛)


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記事にあるとおり、バブル期に作られた大阪御堂筋の彫刻群について。光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)のための中型試作」が「みちのく」という題で設置されています。

これからも愛され続けて欲しいものです。


さらに昨日の『読売新聞』さん。別刷り日曜版の連載「名言巡礼」で、光太郎と交流のあった北海道弟子屈出身の詩人・更科源蔵がメインで扱われています。

更科源蔵「原野というものは、なんの変化もない…」 過酷な自然 生活の原体験

 原野というものは、なんの変化もない至極しごく平凡な風景である(更科さらしな源蔵げんぞう「熊牛くまうし原野げんや」(1965年))
 北海道東部の弟子屈(てしかが)町。厳冬期の熊牛原野に立った。白い雪原には、キタキツネの足跡が点々と続く。
 出身の詩人、更科源蔵は「原野の詩人」と称される。「熊牛原野」は原野での生活をつづった自伝。「原野というものは、なんの変化もない至極く平凡な風景である」は冒頭の一節だ。「私はそんな原野の片隅で生うまれ、そこで育った」と受ける。
 同町で農地の開拓が始まったのは明治中期。新潟から熊牛原野に入植した更科の父は、開拓の草分けでもある。「クマウシ」はアイヌ語で「魚を干す棚が多いところ」のこと。豊漁の地を意味するが、本土から渡ってきた和人はいかにも野蛮な漢字を当てた。その地で、更科は1904年に生まれた。開拓者たちは原野の一角を耕し、牛や馬を放牧した。
 更科は原野を遊び場とし、花や昆虫が友だった。原野の自然は過酷で、猛吹雪により死にかけたこともある。30代半ばで町を離れるまで一時、牧畜農家として苦闘した。「君は牛の使用人ではないか」。都会から訪れた友人にはこう揶揄(やゆ)された。
 〈白く凍いてつく丘に遠い太陽を迎へる厳然たる樹氷であらうとも/森は今断じて遠大な夏を夢見ぬ〉
代表作「凍原(とうげん)の歌」の一節だ。「厳しい原野での生活を原体験に、北海道の大自然とそこに生きる人々の生活を肉声でうたい、中央の詩誌に認められた」と、詩人で更科にちなんだ「更科源蔵文学賞」選考委員長の原子(はらこ)修さん(85)は解説する。
 人々の中には原野で隣人だったアイヌ民族も含まれる。「教科書で教える大和朝廷のエゾ征伐は、和人の勝者の歴史なのでは」。アイヌの子どもらを教えていた代用教員時代、そんな疑問を口にしたところ、思想不穏当として解雇された。権威にも権力にもこびなかった。
 町在住の高田中みつるさん(82)は更科に手を引かれてアイヌの集落を訪れ、ヒグマの魂を神の国に返す「熊送り」を見た。「『更科おじさん』と子どもらに慕われていましたよ」
 「至極く平凡な風景」とは、故郷を卑下しているわけではない。更科にとり、原野は自分という存在の慈しむべき原点なのだから。 (文・阿部文彦 写真・岩佐譲)

更科源蔵
1904~85年。東京の麻布獣医畜産学校(現麻布大)中退。上京時、詩人・尾崎喜八に師事。 「智恵子抄」で知られる高村光太郎の影響も受ける。詩集に「種薯」「無明」など。散文も、「熊牛原野」(大和書房「ふるさと文学さんぽ 北海道」に一部収録)のほか、「アイヌと日本人」、自伝的小説「原野シリーズ」など多数。40年、弟子屈町での生活を諦め、札幌市に転居。北海道立図書館嘱託などを経て、道立文学館理事長。「更科源蔵文学賞」は同町の後援で有志が創設。現在は休止中。

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2ページ分あり、上記は1ページ目です。

光太郎、文中にある更科の詩集『凍原の歌』(昭和18年=1943)の題字を揮毫してやったり、更科が発行に関わった雑誌『大熊座』、『犀』などに寄稿したりしています。また、自然志向の強かった光太郎、実現しませんでしたが、更科を頼って北海道移住を夢見た時期もありました。

また、更科をモデル、というか、更科の語った北海道開拓の様子をモチーフにした「彼は語る」(昭和3年=1928)という詩も書いています。

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    彼は語る

 彼は語る
 北見の熊は荒いのですなあ
 釧路の熊は何もせんのですなあ
 かまはんけれや何もせんのですなあ
 放牧の馬などを殺すのは
 大てい北見から来た熊ですなあ

 彼は語る
 地震で東京から逃げて来た人達に
 何も出来ない高原をあてがつた者があるのですなあ
 ジヤガイモを十貫目まいたら
 十貫目だけ取れたさうですなあ
 草を刈るとあとが生えないといふ
 薪にする木の一本もない土地で
 幾家族も凍え死んださうですなあ
 いい加減に開墾させて置いて
 文句をつけて取り上げるさうですなあ

 彼は語る
 実地にはたらくのは、拓殖移住手引の
 地図で見るより骨なのですなあ
 彼等にひつかかるとやられるのですなあ


この『読売新聞』さんの「名言巡礼」。かつて光太郎や、光太郎と交流の深かった尾崎喜八永瀬清子も取り上げられました。こうした詩人などをもっともっと取り上げていただきたいものです。


当方、読売さんは購読しておりませんので、日曜版にこれが載ったという情報を得、コンビニで買ってきたのですが、本紙にも光太郎の名があり、驚きました。

一面コラムの「編集手帳」です。

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光太郎、昭和2年(1927)には、ずばり「草津」という詩を書いています。引用されているのが全文の、たった四行の短い詩ですが。

光太郎、たびたび草津温泉にも足を運んでいました。ご当地ソングならぬご当地詩、ということで、草津では囲山公園にこの詩を刻んだ碑が建っています。平成2年(1990)の建立で、光太郎自筆の原稿から写した金属パネルを自然石にはめ込んでいます。推敲の跡がそのまま残っており、言葉に鋭敏だった光太郎の詩作態度がよくわかります。パネル制作は光太郎の実弟・豊周の弟子だった故・西大由氏でした。

また、草津温泉のシンボル、湯畑の周囲を囲む石柵には、「草津に歩みし百人」ということで、錚々たるメンバーの名が。もちろん光太郎も入っています。

当方ももう十数年行っていないので、久しぶりに草津へ行ってみたくなりました。


さて、これだけ短期間に、ちょこちょことではありますが光太郎の名が新聞各紙に出るということは、まだまだ光太郎もメジャーな存在でいられているということなのかな、と思いました。ありがたいことですが、光太郎の名が忘れ去れれないよう、今後も努力せねばとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

普通に、彫刻は動かないものと思はれてゐる。実は動くのである。彫刻の持つ魅力の幾分かは此の動きから来てゐる。もとより物体としての彫刻そのものが動くわけはない。ところが彫刻に面する時、観る者の方が動くから彫刻が動くのである。一つの彫刻の前に立つと先づその彫刻の輪郭が眼にうつる。観る者が一歩動くとその輪郭が忽ち動揺する。彫刻の輪郭はまるで生きてゐるやうに転変する。思ひがけなく急に隠れる突起もあり、又陰の方から静かにあらはれてくる穹窿もある。その輪郭線の微妙な移りかはりに不可言の調和と自然な波瀾とを見てとつて観る者は我知らず彫刻のまはりを一周する。彫刻の四面性とは斯の如きものである。

散文「能の彫刻美」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

この一節を読んでから、彫刻鑑賞の方法が変わりました。皆さんもぜひお試しあれ。