昨年発刊された隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』。第6号が届きました。

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花巻高村光太郎記念館さんの協力による創刊号からの連載「光太郎レシピ」プラス、今号は特集で「賢治の足跡 光太郎の足跡」。表紙もそれに伴い、昭和20年(1945)に光太郎が約1ヶ月暮らした、市内桜町の佐藤隆房邸の離れです。ここを光太郎は「潺湲楼(せんかんろう)」と名付け、郊外太田村の山小屋に移り住んでからも、町に泊まりがけで出てきた際には、ここに宿泊することがほとんどでした。佐藤は賢治の主治医でもありました。

その他、主に市街の、光太郎ゆかりの場所がたくさん紹介されています。終戦の玉音放送を聴いた鳥谷崎神社さん、毎年のように智恵子や光雲の法要を営んでもらっていた松庵寺さん、それから光太郎の日記に名が出てくる店舗。今も同じ場所に残っているところが何軒もあり、驚きました。また花巻へ行く際には、探してみたいと思いました。やはり、地元をよく知る方の情報量にはかないません。日記にちらりと出てくる屋号で、あの場所か、とわかってしまうのでしょう。
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それから、市の中心部ではありませんが、旧東和町のホームスパン工場跡地なども。ここで羊毛織物のホームスパン制作にいそしんでいた及川全三は光太郎とも因縁浅からずでした。『マチココ』さん、今後、この方面についても詳しく取り上げたい旨、聞き及んでおります。光太郎との絡みをぜひ紹介していただきたいものです。

オンラインで年間購読の手続きができます。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

抽象と具象、この差は紙一重だ。

談話筆記「東洋と抽象彫刻」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

分類しろと言われれば、光太郎のそれは具象彫刻です。しかし、ただ単に対象を本物そっくりに作るというのではなく、対象の精髄的なものを取り出して表現するという意味では、抽象彫刻の要素も色濃く持っています。ロダンもそうであったと光太郎は指摘しています。