光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻から、演劇の公演情報です。

第42回花巻市民劇場公演 「多田等観物語 日が昇る 観音山に帰りたい」

日時 : 2018年2月24日(土) 18:30  2月25日(日)14:00
会場 : 花巻市文化会館 岩手県花巻市若葉町三丁目16番22号
料金 : 一般1,000円/高校生500円/中学生以下無料
主催 : 花巻市・花巻市民劇場実行委員会

 「今、日本の仏教は壊滅的な状況にある。多種多様な思想が我々の生活をもてあそんでいる。インドの仏教は滅び、セイロン・ビルマ・シャムの仏教は半死の状態である。今こそ仏教の原点を残しているチベットの仏教を学び、日本に命ある新しい仏教の教義を作らねばならない。
 このままでは親が子を思い、子が親を慕うと言うあたりまえのことができぬ地獄のような世界になってしまう。だから多田君、チベットの仏教を学び、日本に持ち帰って欲しいのだ。」と島地大等(盛岡北山・願教寺住職)の想いを受け多田等観はチベットへ旅立った。明治45年1月のことである・・・。

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平成16年(2004)に初演されたもので、市民の皆さんによる手作りの演劇です。

主人公の多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。


花巻市さんの広報紙『広報はなまき』によれば、「▼20代の若き僧がなぜチベットに行くことになったのか▼なぜ花巻にチベットの経典などがあるのか▼円万寺の人とのふれあい▼彫刻家で詩人の高村光太郎との出会い―などを、ユーモアを交えながら描く。」とのことで、光太郎も登場するそうです。

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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

世界の美はもう一度健康をとりもどさねばならず、更にもう一度高度の美にまで引き上げられねばならない。

散文「美の中心」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

太平洋戦争末期の文章で、全体にはキナ臭さを含むものですが、こうした時期にも光太郎が「美」の行く末を真剣に案じていたことがうかがえます。