東京北区から企画展情報です。
田端に集まる理由(ワケ)がある~明治の田端は芸術家村だった!?
期 日 : 2018年2月10日(土) ~ 5月6日(日)会 場 : 田端文士村記念館 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 午前10時~午後5時
休館日 : 月曜・祝日の翌日
月曜が祝日の場合は火・水曜休館、祝日の翌日が土日の場合は、翌週の火曜休館
料 金 : 無料
開館25周年記念展第1弾は、明治期の田端がテーマです。本展覧会では、芸術家たちが独自の文化を形成し、田端が芸術家村となった“理由(ワケ)”を様々な資料で紹介します。
関連イベント
講演会「明治の美術 ~東京美術学校を中心に~」東京美術学校(現・東京藝術大学)が設置されて以降、明治後期の美術界に起きた様々な動きを、上野・田端という地域社会とも関連付けながらご講演いただきます。
日時:3月25日(日) 14:00開演(13:30開場) 参加無料
講師:古田 亮 氏(東京藝術大学大学美術館准教授)
申込:往復はがきで3月12(月)必着。定員100名(応募多数の場合は抽選)。
講師:古田 亮 氏(東京藝術大学大学美術館准教授)
申込:往復はがきで3月12(月)必着。定員100名(応募多数の場合は抽選)。
田端といえば、光雲・光太郎父子が暮らしていた千駄木にもほど近く、そこに暮らし、文士村、芸術村といわれる共同体を形成していた芸術家の中には、光雲・光太郎と関わりの深かった人物も多く含まれます。
その初期に田端に住んだ陶芸家の板谷波山は、東京美術学校彫刻科で光雲に師事していました。同じく美術学校関係では、昨日もご紹介した鋳金家の香取秀真・正彦父子、画家の石井柏亭、その実弟の彫刻家・鶴三など。もともと、美術学校の学生たちが、田端近辺の下宿を多く利用していたのが、文士村、芸術村の始まりとも言われています。
その他、室生犀星、萩原朔太郎、平塚らいてうなども、田端文士村の一員で、光太郎と関わった面々です。
展示での光太郎との関わりは、光太郎も寄稿し、芸術運動「パンの会」の一つの源流となった雑誌『方寸』がらみくらいだと思われますが、関連イベントとしての講演会が、「明治の美術 ~東京美術学校を中心に~」ですので、ここでは光雲・光太郎関連のお話も出るのでは、と期待しております。
ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
いかなる時にも美術は千年の息をして生きてゐる生活体なのである。
散文「奉祝展に因みて」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳
日中戦争は泥沼化し、翌年には太平洋戦争へと突入するこの時期、明治維新以来の西欧美術の輸入も一段落し、改めて美術の在り方を模索しようではないかという提言です。
紹介した一文の前には、「低劣な作家はかういふ社会の波に乗る事を心得てゐて口に民族意識といふやうな言を吐きながら、手に卑俗な彫刻しか作り得ず、純粋な芸術上の諸問題を回避する傾向があり勝ちである」といった一節もあります。
政治の世界にも当てはまりそうですし、80年経った現代、またぞろこういう輩が跳梁跋扈しているように思えてなりません。