一昨日の『朝日新聞』さんに、「智恵子抄」の文字。文芸文化面に載った「(文化の扉)愛とロマンの万葉集 天皇の歌も防人歌も、編纂の謎」という記事でしたが、記事本体ではなく、イラストの部分でした。
記事は、『万葉集』の成立過程などを紹介するもので、相聞歌が多いとし、 「内緒にしてたのにみんなにばれちゃった」と高校生カップルみたいな歌もあれば、親友への冗談、貧しさへの悲しみ、今もある山河や草花、鳥に心動かされた歌も。人の気持ちは案外、昔も今も変わらない」という例、さらに天王から庶民まで、さまざまな階層の人々の作品が採られている例として、智恵子の故郷、福島二本松に聳える安達太良山が詠み込まれた東歌が引かれているわけです。
歌の全文は、「安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)のあり つつも吾は至らむ寝処な去りそね」。巻の十四に収められています。「安達太良山の峰に伏す鹿猪よ(=わが愛する娘よ)、そのままいつもの寝場所に居て下さい、私はいつものようにお前のところへ行こうと思っているのだから」といった意味です。なるほど、「1200年早い「智恵子抄」」と言えなくもありません。『万葉集』には、この他にも安達太良山が謳われた歌が二首あり、そちらはさらに生々しい相聞歌です。
光太郎は『万葉集』の「ますらをぶり」に心牽かれていたと思われます。昭和24年(1949)の雑誌『表現』に載ったアンケート「貴方の愛読書は」で、「二十代(青春時代)」の愛読書として『万葉集』を挙げていますし、「私は万葉集時代の東えびすが東歌を書いたやうに自分の詩を書いてゐる。」(散文「某月某日」昭和16年=1941)、「僕の詩は万葉集みたいになる。」(座談「美と生活」昭和27年=1952)などと書いたり言ったりしています。
すると当然、安達太良山を詠んだ三首の存在も知っていたでしょうし、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」に添えられた短歌「みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ」(大正12年=1923)も、『万葉集』へのオマージュです。曰く、「「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が木の下に居た。人というのは万葉でも特別な人を指すんです。」
さて、『朝日新聞』さんといえば、先月13日、土曜版の連載、「みちのものがたり」で、「高村光太郎「道程」 岩手 教科書で覚えた2大詩人」という題で、昭和20年(1945)から27年(1952)まで、光太郎が蟄居生活を送った岩手花巻郊外の旧太田村に今も残る山小屋(高村山荘)での光太郎を紹介して下さいました。
次の週の土曜版でも、その続報的に、読者の方の投稿を紹介しています。
「(「道程」が)現在ではほとんどの教科書に掲載されていないことを知って驚きました」(千葉、58歳男性)、
「高名な彫刻家で詩人なのに、気さくで飾らない光太郎の晩年の姿を今回初めて知り、人柄にも魅力を感じ、記念館に行ってみたくなりました」(滋賀、47歳女性)
「滋賀、47歳女性」さん、ぜひ足をお運び下さい(笑)。ちなみに当方、来週、また行って参ります。
さらに、1月15日、広島版の記事。その高村山荘がちらりと出てきます。
ひとin【広島】 福原一閒(かん) さん しの笛奏者 「音は無限、生かせる舞台を」
国内外に足を運ぶ。一昨年には、G7の首脳会合で来日した各国の外相に宮島で音色を披露した。華やかな経歴を持つが、迷いがなくなったのは不惑を超えてからだった。 しの笛との出会いは小学6年の時。遊びに行った近所の画家の家で見つけ、手にとると難なく音が出た。幼少から歌や楽器が好きで、中学、高校ではブラスバンド部でトロンボーンとフルートを担当した。興味が高じ、竹で尺八を自作したこともあった。
だが、楽器の奏者として生きることは考えず、器用さを生かし、21歳で木彫りや漆器の職人を志した。
詩人で彫刻家の高村光太郎が構えた小さな山荘に憧れ、現在の安芸太田町に土地を買い、自らログハウスを建てた。朝は滝に打たれ、ロウソクの火で本を読み、川で水を浴びる。自然の中で暮らし、ヨガを習うためインドなども訪れた。
神楽と出会い、楽器を演奏していた経験から、しの笛を吹くように。笛の奏者が集まる「横笛(ようじょう)会」に入り、30代半ばで人間国宝の故・六代目福原百之助こと四世宗家・寶山左衞門さんに出会い、弟子入りした。
「それまで、どんな仕事をしても『違う』という思いがあったが、しの笛を始めて迷いがなくなった」。生計を立てていたログハウス作りなどを一切やめ、笛で生きると決意。40歳を超えた1996年に名取(なとり)を許され、「福原一閒(いっかん)」として活動を開始した。
神楽の創作にも取り組む。幕あいを含めると、舞台に上がる時間が4時間に及ぶこともあるが、還暦を越えても、さらなる高みを見据える。「しの笛は、穴の押さえ方次第で、出せる音は無限に広がる。微に入り細に入り、もっとしの笛を生かせる舞台を作りたい」(松崎敏朗)
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1955年、広島市生まれ。現在は安芸太田町に在住。オーストリアやブラジルなどの海外でも舞台に立ったこともある。「一閒洞」を主宰し、これまでの教え子は約300人。宮島観光大使も務めている。
記事に出てくる、福原さんの師の故・寶山左衞門氏は、智恵子へのオマージュ「智恵子と空」という曲を作られています。この曲は、寶山左衞門氏、さらに福原氏のきょうだい弟子・福原一笛さんのCDに収められています。
『万葉集』から影響を受けた光太郎に、さらに後代のいろいろな方が影響を受け、こうして「文化」というものが連鎖してゆくのかな、と思いました。
【折々のことば・光太郎】
美は元来健康なものである。頽唐の美、脆弱の美といふものもあり、それが容易く万人の心に深くしみ入る性質を持つてゐるので、今にも絶え入りさうなものの美を殊に哀惜する思から、脆きものは美なり、はかなきものは美であるといふやうな観念まで出来てゐるが、結局其は美の変質であると見ねばならぬ。
散文「美の健康性」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳
こういう考え方の光太郎ですから、『万葉集』に心牽かれるのは、さもありなん、ですね。