先月、市立図書館さんに「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」をオープンさせた埼玉県東松山市さんの広報紙『広報ひがしまつやま』の今月号に、その件が報じられました。

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オープン記念に開催された当方の講演についてもご記述下さっています。

このコーナーは、戦時中から光太郎と交流があった、同市の元教育長・故田口弘氏から同市が寄贈を受けた光太郎関連の資料を展示するものです。当方のオープン記念講演の中では、氏と光太郎の関わりについて話させていただきました。その中で、昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑(光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんにも同じ文字を刻んだ碑があります)が、氏のお骨折りで建立されたことにも触れました。

そうしましたところ、講演会終了後、市役所の方が、当時の資料が見つかったというので、送って下さいました。B4判二つ折りのリーフレットです。

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当時教育長だった田口氏の「この石碑ができるまで」、当時の校長先生による「記念碑の除幕にあたって」、そしてこの文字を提供して下さった、当時の花巻高村記念会の浅沼政規事務局長が書かれた「高村光太郎書「正直親切」の由来について」が掲載されています。浅沼政規氏は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)にほど近い、山口小学校の初代校長先生でした。もともと「正直親切」の文字は、昭和23年(1948)に、同校が太田小学校山口分教場から山口小学校に昇格した際に、光太郎が校訓として贈ったものです。氏は平成9年(1997)に亡くなりましたが、ご子息の隆氏はご健在。山口小学校に通っていた頃、光太郎の山小屋に郵便物を届けに行ったりなさっていて、今も光太郎の語り部としてご活躍中です。

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ところで、驚いたのは、このリーフレットに光太郎詩「少年に与ふ」(昭和12年=1937)が印刷されていたこと。先日の講演会の冒頭に、地元の朗読グループの方が、光太郎詩と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読なさることとなり、何かふさわしい詩は、と照会されたので、この詩を推薦しました。光太郎詩の中ではそれほど有名な作品ではありませんが、「持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」という一節が、まさに田口氏の生き様に通じると思ったからです。そうしましたところ、昭和58年(1983)作成のリーフレットで、やはり田口氏がこの詩を選んでいたということで、驚いた次第です。

また、田口氏は、光太郎つながりで、彫刻家の高田博厚とも親交を深め、同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。その件でも同市役所の方から照会がありました。高田の居住していた鎌倉のアトリエのリビングに、光太郎の絵らしきものが掛かっていたが、これは何なのか、と。

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大分色が褪せていますが、これは昭和22年(1947)11月30日発行の雑誌『至上律』に口絵として載ったもので、当時光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村の水彩スケッチです。この切り抜きを高田が壁に掛けていたと知り、胸を打たれました。

さて、同市立図書館さんの「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

何だかあたり前に出来てゐると思へれば最上なのである。それが美である。

散文「蝉の美と造型」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

光太郎が好んで木彫のモチーフとした蝉に関する散文です。本来薄い翅(はね)をかえって厚く仕上げるところが腕の見せどころ、としています。そうすることで、彫刻的な美しさがより顕著になるそうです。しかし、翅が薄いとか厚いとか、そんなことは気にならずに、すっと目に入ってくるもの、「何だかあたり前に出来てゐる」べきともしています。

このことは彫刻に限らず、詩にしても、絵画にしても、書にしても、光太郎芸術の根柢に流れる考え方で、実際にそれが実現されているといえるでしょう。