連載「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」、これまでは全1ページでしたが、今号は3ページも取って下さっています。
大正2年(1913)の1月と推定される、光太郎から智恵子への長い手紙の全文を掲載して下さいました。これは、現在、ほぼ唯一確認できている結婚前の智恵子宛です。光太郎智恵子の結婚披露は翌大正3年(1914)でした。
全文を紹介しようと思いましたが、長いので、こちらのリンクをご参照下さい。平成25年(2013)に放映されたNHKさんの「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で、この手紙が取り上げられた際のレポートです。ついでに言うと、この手紙が紹介されている書籍、CDの情報はこちら。
智恵子に宛てた光太郎書簡は、5通しか現存が確認できていません。
1通目は、大正元年(1912)と推定され、これも結婚前ではありますが、智恵子と同居していたすぐ下の妹・セキとの連名で宛てたもの。そこで、先ほど、「ほぼ唯一」と書きました。
此の間の夜はあまり突然のこととて何の御愛想もいたされませんでしてまことに失礼いたしました それに折角お目にかゝりながらろくろくお話さへも出来ませんで本意ない事に存じました どうぞあれにおこりにならず御暇もございましたら又遊びにおいで下さいますやう うまい紅茶やお好きなあづきもたんとさし上げますから 同封にて失礼の段おゆるし下さいまし 十月五日 高村光太郎 光 長沼ちゑ子様お妹様御座下
この次に、今回のものが入り、続いて大正5年(1916)夏。
いろんなものを写真にとりました 此は少し黒く焼きすぎました。もつとよく出来るでせう。 東京はまだ暑さ烈し
こちらは絵葉書、というか、写真を絵葉書として使ったもので、写真は智恵子の首を作った光太郎彫刻です。この時智恵子は、新潟の友人宅に滞在していました。
次いで、時期的にはずっと飛んで、心を病んだ智恵子が療養していた千葉県九十九里浜にいた五番目の妹(セツ=節子)の家に送ったハガキ。昭和9年(1934)5月、同地に移った直後のものです。
節子さんによんでもらつて下さい。 真亀といふところが大変よいところなので安心しました。何といふ美しい松林でせう。あの松の間から来るきれいな空気を吸ふとどんな病気でもなほつてしまひませう。 そしておいしい新らしい食物。 よくたべてよく休んで下さい。 智恵さん、智恵さん。
「節子さんによんでもらってください」とは、もはや夢幻界の住人となっていた智恵子は自分で読むことが出来なくなっていたからでしょう。末尾の「智恵さん、智恵さん。」には、心打たれます。
最後に、同じ年の12月、やはり九十九里に送ったものです。
さつきはいそいだので無断で帰りました、無事に帰宅しました。 今度参上の時は多分東京から自動車を持つてゆけるでせう。それまで機嫌よくしてみんなに親切にして下さい。 心のやさしいのは実に美しいものですね。お天気がよいので暖かです。
「自動車」は、結局、九十九里にも置いておけなくなった智恵子の迎えの車です。「田村別荘」として平成11年(1999)まで残っていたセツの家には、姉妹の母・セン、セツの夫、さらにセツの幼い子供がおり、その子供への教育上の配慮から、ふたたび智恵子を光太郎が引き取ることになりました。翌年には南品川ゼームス坂病院へ入院することになります。
この5通以外は、先述の彫刻「智恵子の首」などとともに、昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろとも灰燼に帰したと推定されます。ただ、なにがしかの事情で、今回の5通同様に、他所に保管されているものがまだあるかもしれません。それを祈ります。
【折々のことば・光太郎】
美とは生活の附加物でなくて、生活の内部から人間を支へてゐる精神的基礎である。美を感ずる事は能力に属する。此の能力ある時美は到る処に充満する。此の能力の発動なき時この世は如何につまらない愚痴の世界であるか。
散文「戦時、美を語る」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳
日中戦争が泥沼化しつつある時期の発言です。こうした時代にも「美」を忘れるなという提言で、国民の心の荒廃を防ごうとしていたことがわかります。