まずは今朝の『朝日新聞』さんから。 

芥川賞に若竹千佐子さん・石井遊佳さん 直木賞に門井慶喜さん

 第158回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が16日、東京・築地の「新喜楽」で開かれ、芥川賞に若竹千佐子さん(63)の「おらおらでひとりいぐも」(文芸冬号)と石井遊佳(ゆうか)さん(54)の「百年泥」(新潮11月号)の2作、直木賞には門井慶喜(かどいよしのぶ)さん(46)の「銀河鉄道の父」(講談社)が選ばれた。副賞は各100万円。贈呈式は2月下旬、東京都内で開かれる。

(略)

 直木賞の門井さんは1971年、群馬県桐生市生まれ。同志社大卒。大阪府寝屋川市在住。大学職員として働いた後、2006年に「天才たちの値段」でデビュー。評論「マジカル・ヒストリー・ツアー ミステリと美術で読む近代」で日本推理作家協会賞、「東京帝大叡古(えーこ)教授」「家康、江戸を建てる」で直木賞候補に。受賞作は、宮沢賢治の生涯を父政次郎の視点から書いた。
 会見での第一声は「風がきた。飛ぶだけだ。そういう気持ちです」。歴史小説家という仕事について「歴史好きの父から慶喜という名を与えられたことで、決まっていたのかもしれない。21世紀の読者にとって価値のあるものを歴史の中に見つけていく、21世紀の文章で届けていく」と話した。
 選考委員の作家、伊集院静さんは「圧勝でした。門井さんは歴史的事実だけでなく、父と子というテーマに対峙(たいじ)した。どうしようもなさや柔らかさなど、賢治の幅を広げたのも門井さんの功績」とたたえた。


というわけで、直木賞は門井慶喜氏の『銀河鉄道の父』。宮沢賢治の父・政次郎を主人公とした小説です。政次郎は、昭和20年(1945)、空襲で東京駒込林町のアトリエを失った光太郎を、花巻の自宅に疎開させてくれた人物ということで、昨年のこのブログで同書をご紹介させていただきました。ただし、光太郎は直接は登場せず、2回ほど、名前が出ているのみでしたが。

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最近、同書が新刊書店で平積みになっているのを眼にし、失礼ながら、この手の書籍が刊行後しばらく経ったこの時期で平積みになっているのは珍しいな、と思っていました。すると、コンビニのレジでは「直木賞候補作一覧」的な広告が印刷されたマットが敷かれていて、なるほど、と思った次第です。

非常に読み応えがありまして、光太郎がらみの人物がたくさん登場することもあり、ぜひ受賞して欲しいものだと思っていたところ、見事に受賞。嬉しいニュースです。

こちらは昨秋、『朝日新聞』さんに載った、作家の逢坂剛氏による書評。スクラップしておいたものです。

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以前にもこの画像を使いましたが、こちらが政次郎(中央)です。右が光太郎、左は政次郎の妻・イチ。花巻郊外旧太田村の、光太郎が蟄居していた山小屋(高村山荘)前でのワンショットです。

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当会の祖・草野心平(後列左)も写っているものもあります。

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前列左から政次郎、イチ。前列右端は、政次郎ともども、光太郎を花巻に招いた、賢治の主治医でもあった佐藤隆房、その後ろは賢治実弟の清六です。佐藤の左の女性は、すみません、当方、よくわかりません。賢治の妹のシゲあたりでしょうか。

『宮沢賢治全集』の編集などにより、生前は無名だった賢治を世に送り出してくれたということで、政次郎は光太郎や心平に深く恩義を感じていました。その結果、光太郎の花巻疎開が実現したわけです。

後に光太郎は、こんな短歌も遺しています。

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みちのくの 花巻町に 人ありて 賢治をうみき われをまねきき

政次郎や佐藤を指しての一首です。


ところで、直木賞とセットの芥川賞に選ばれた若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」。こっちも賢治がらみか、と思いました。「おらおらでひとりいぐも」というのは、妹・トシの臨終を謳った賢治の詩「永訣の朝」の一節だからです。ところが、こちらは直接に賢治が登場するわけではなく、現代を舞台にしているとのこと。ただ、若竹さん、やはり岩手のご出身だそうです。

さて、『銀河鉄道の父』。以前にご紹介した時にも書きましたが、物語は賢治歿後の昭和10年(1935)までで終わっているので、その後の政次郎(昭和32年=1957まで存命)を描く続編を期待したいところです。そうすると、光太郎との関わりがさまざまな点で出てきますので。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

テレヴヰジヨンの完全な発達によつてその混淆した使命の両分されるに至るまで、この罐詰芸術は果してどんな独自の役割を果すだらう。

散文「七つの芸術」中の「五 映画について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「七つの芸術」の中に映画も入れているというのが意外な気もしますが、光太郎、確かに映画も好んでよく観ていましたし、映画評論的なものも書いています。花巻郊外旧太田村に蟄居中も、時折、花巻町に出て来ては、賢治実弟の清六らと共に、フランス映画などを観ていました。

それにしても、昭和初期の時点で、後にテレビが世の中を席捲するであろうことを予言しているようにも読め、その先見性には驚かされます。