新刊楽譜を入手しました。

吉田寛子作品集 或る夜のこころ

2018/01/01 カワイ出版 吉田寛子作曲 定価1,400円+税

 ぼくのシャボン玉 【三部合唱】 吉田寛子作詩
 或る夜のこころ『智恵子抄』より 【女声合唱】 高村光太郎作詩
 救いの御子の降誕を 【独唱または二部合唱】 水野源三作詩
 ぼくのシャボン玉 【ピアノ連弾】
 むかし夢見た 【独唱】 ハイネ作詩・井上正蔵訳詩

 バラバラに散らばっていた自分の作品を、いつかまとめて本に出来たら…と思っていました。大学の卒業作品、息子の初めてのピアノ発表会で一緒に弾くために書いた連弾曲、その曲を合唱団の人が「いいね!みんなで歌いたいな!」と言ってくれたおかげで、詩を書き、多くの方が笑顔で歌って下さる曲となったこと、教会の書庫で見つけた詩集に心動かされて出来た曲、…その時々の思いを込めて作った曲が一冊の作品集となり、出版できることとなりました。皆さんに演奏していただけたら嬉しいです。合唱は同声でも混声でもお楽しみ下さい。
(「はじめに」 より)

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光太郎作詩の「或る夜のこころ」(大正元年=1912)に曲を付けた女性三部合唱曲が収録されており、表題作ともなっています。この曲のみ、「神尾寛子」クレジットとなっていますので、「はじめに」の「大学の卒業作品」というのが、これでしょう。

吉田さん、巻末のプロフィールによると、「1982年 国立音楽大学教育音楽学科第Ⅱ類(リトミック専攻)卒業」となっていました。余談になりますが、当方、アマチュア合唱団に所属しており、そちらの指揮者の先生も同科のご出身です。吉田さんより十数年先輩だと思われますが。

閑話休題。「或る夜のこころ」、詩は以下の通りです。

   或る夜のこころ
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 七月の夜の月は
 見よ、ポプラアの林に熱を病めり
 かすかに漂ふシクラメンの香りは
 言葉なき君が唇にすすり泣けり
 森も、道も、草も、遠き街(ちまた)も
 いはれなきかなしみにもだえて
 ほのかに白き溜息を吐けり
 ならびゆくわかき二人は
 手を取りて黒き土を踏めり
 みえざる魔神はあまき酒を傾け
 地にとどろく終列車のひびきは人の運命をあざわらふに似たり
 魂はしのびやかに痙攣をおこし
 印度更紗の帯はやや汗ばみて
 拝火教徒の忍黙をつづけむとす
 こころよ、こころよ
 わがこころよ、めざめよ
 君がこころよ、めざめよ
 こはなに事を意味するならむ
 断ちがたく、苦しく、のがれまほしく
 又あまく、去りがたく、堪へがたく――
 こころよ、こころよ
 病の床を起き出でよ
 そのアツシシユの仮睡をふりすてよ
 されど眼に見ゆるもの今はみな狂ほしきなり
 七月の夜の月も
 見よ、ポプラアの林に熱を病めり
 やみがたき病よ
 わがこころは温室の草の上
 うつくしき毒蟲の為にさいなまる
 こころよ、こころよ
 ――あはれ何を呼びたまふや
 今は無言の領する夜半なるものを――


大正元年9月の『スバル』第4年第9号に掲載されました。掲載時には「(N-女史に)」の献辞が付けられていました。「N」は智恵子の旧姓「長沼」の「N」に他なりません。

8月18日作となっており、同じ『スバル』第4年第9号には、連翹忌会場である日比谷松本楼さんでの一コマを謳った「」、智恵子に対し「いけない、いけない/静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない/ まして石を投げ込んではいけない」と釘を刺す「おそれ」などがセットで掲載されています。

この月、光太郎は犬吠埼に絵を描くために滞在。智恵子も妹・セキ、友人の藤井勇(ゆう)と共に光太郎を追って犬吠に出かけます。セキと藤井は先に帰り、智恵子のみ残って、最初に泊まっていた御風館から、光太郎が宿泊していた暁鶏館に移るという大胆な行動に出ました。光太郎が帰京したのは9月4日。その際には智恵子も一緒だったかどうかは不明です。この犬吠行きで、二人の心はほぼ固まったようで、光太郎は11月には「わがこころはいま大風(おほかぜ)の如く君にむかへり」で始まる「郊外の人に」を書き上げています。

さて、吉田さんの「或る夜のこころ」。こうした光太郎の魂の躍動を表すように、力強く小気味のいいメロディーライン。途中、3回の転調、3連符や変拍子を多用、光太郎が感極まったことを表すヴォカリーズ(歌詞なしのa母音)やら、主旋律をメゾソプラノやアルトにも配するなどの工夫やら、現代音楽ふうのいかにも学生の卒業制作という感じですが、爽やかな一曲です。

女声合唱団の皆さん、中難度の曲ですが、ぜひレパートリーに加えて下さい。


【折々のことば・光太郎】

ピカソの才無くしてピカソの教を守るもの程路に迷ふものはあるまい。

散文「正と譎と」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

この文章では、ピカソ、ドラン、果ては松尾芭蕉までも引いています。それぞれが長い苦闘の末、王道たる「正」と、一見邪道の「譎(けつ)」とのせめぎ合いの中から、それぞれの作風に達したことを論じました。そうした経緯を持たぬ者が形だけ巨匠の真似をしても仕方がない、ということでしょうか。