「このシーンから始まるのか」と驚きました。今日から放映が始まる、NHKさんの大河ドラマ「西郷どん」。
今朝の『朝日新聞』さんのテレビ欄です。
「冒頭は東京・上野公園。西郷隆盛像除幕式で「あれはうちの旦那さんじゃなか」と3番目の妻・糸(黒木華)は叫ぶ。」
光太郎の父・光雲が木型の制作主任を拝命し、東京美術学校が制作を請け負った西郷隆盛像に関し、昨今、このエピソードが定説と化しているように思われます。
西郷は有名な写真嫌いのために肖像写真はなく、イタリア人画家のキヨソーネが描いた肖像画も、最後の死後に弟の西郷従道の容貌を基にしたものであった。一八九八(明治三十一)年十二月の除幕式に、総理大臣の山県有朋や勝海舟、大山巌、英国公使アーネスト・サトウなど八〇〇名が出席した。鹿児島から西郷夫人のイトも招かれ、像を見て「うちん人は、こげんじゃなか」と言ったのを、従道があわてて窘(たしな)めたという。
『東京の銅像を歩く』 木下直之監修 祥伝社 平成23年(2011)
同様の記述は、あちこちで見かけます。しかし、そのほぼすべてが「という。」なのです。
「火のないところに煙は立たぬ」と申しますから、これに近い出来事があったのでしょう。ただ、これを詳述した当時の文献(新聞記事等)の記述を、当方、寡聞にして見たことがありません。どなたか、当時の何々という文献にこのエピソードが詳述されている、というのをご教示いただければ幸いです。
そんなにも西郷像は本人に似ていないのでしょうか?
昭和2年(1927)から翌年にかけ、『東京日日新聞』に「戊辰物語」という連載がありました。各界著名人の談話筆記で、幕末から明治初年の世相が語られています。その中で、枢密顧問官で子爵だった金子堅太郎の回想にはこうあります。
私の知つてゐる時は西郷隆盛は神田橋にゐた。西郷の内に書生をしてゐる友達を尋ねて行くと「君は西郷を見た事があるか」といふので「ない」と答へると友達は「あれから来るのが西郷さんぢや」と指さしたのを窓からのぞくと一人の男が若党を連れて門からブラブラやつて来た。木綿の黒い羽織を着て刀を差し小倉のやうな袴をはいて、しかも冷やめし草履を引ツかけておる。顔かたちは上野の銅像そつくりの印象が残つておる。
それから、西郷像の鋳造を担当した岡崎雪声の談話。『国民新聞』の明治31年(1898)12月18日、像の序幕直後に載ったものです。
老西郷は生前嘗て写真を撮りし事なかりしため其の肖像に就ては人の知る能はざる苦心をなし先づ元印刷局御雇キヨソネ氏の石版画を根拠として翁が生前の知己親戚に付き一々其の好否を問ひ服装もはじめ陸軍大将の正服なりしが後平服に犬を牽きたる現在のものに改め石膏像(あぶらづち)をも幾度か造りて幾度か壤ち木彫に移りても亦削りつ添へつ非常の経営を重ねし由而して斯くの如きは独り当局其の人にのみ止らず局外の諸氏も亦非常の熱心を以て之を輔け青森県知事河野圭一郎氏の如き城山没落まで翁に従ひ常に其の髯剃り役を勤めしとの故を以て殊に一昨年の夏中炎天を冒して日々美術学校へ通はれ彫刻手に助言して身自ら職工とならんばかりに尽力せられたり
西南戦争の折、西郷の従者を務めていた河野圭一郎に助言してもらいながら、像の制作を行ったというのです。これで本人に似ていないということがありえるでしょうか。
そこで、妻・糸の発言の真意は、顔の問題ではなく服装の問題だ、という解釈があります。
その除幕式が挙行されたのは12月8日のことだった。この時、西郷夫人の糸子が「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」と洩らしたことが伝わり、顔が似ていないとの誤解が生じた。(略)しかしながら西郷糸子は顔が似ていないと呟いたのではなく、このような浴衣姿では散歩はしなかったという意味で言ったものらしい。
『英傑たちの肖像写真―幕末明治の真実』 渋谷雅之著 渡辺出版 平成22年(2010)
ちなみにここでも「らしい」ですね。これも当時の文献等で、そういう内容のものを当方は見たことがありません。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。
肝心の光雲はどう言っているのでしょうか。昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』から。
何しろ昔の話でくはしい事は忘れてしまつたが、製作には相当苦しんだものだ、あのポオズにしてからが西郷さんといふ人は謹厳な人で和服の時は袴を放さなかつたんだといふ様な非難も聞いてゐる、どんな服装をさせるかといふことにも散々、頭をひねつてね、御維新当時の服装でやつてみたりしたが、一向に西郷さんの感じが出ない。
委員の間にも堅苦しくない、磊落な所がよからうといふ意見が出て結局、西郷さんが閑を見てはよく出掛けた兎の山狩のあの構図に決まつた次第で、これには榎本武揚さんなんか大いに賛成してくれた。
委員の間にも堅苦しくない、磊落な所がよからうといふ意見が出て結局、西郷さんが閑を見てはよく出掛けた兎の山狩のあの構図に決まつた次第で、これには榎本武揚さんなんか大いに賛成してくれた。
服装に関して、正しい経緯は以下の通りです。
明治22年(1889)、西南戦争で逆賊とされた西郷に復位の恩命が下され、それを機に銅像建設の計画が始まりました。まず、美術行政に尽力した九鬼隆一がブレーンとなって、図案懸賞募集が行われています。同年10月15日の『東京日日新聞』に載った「贈正三位西郷隆盛君銅像図案懸賞募集広告」によれば、「一馬上高サ二丈以下一丈ノ事 一陸軍大将ノ軍服ヲ着スル事」とあり、当初は軍服姿の騎馬像という計画でした。
しかし、経費の問題などから、現在の着物姿に改められたと、『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第一巻』(昭和62年=1987)に記述があります。一度は逆賊とされた西郷なので、軍服姿は忌避されたというのも通説のようですが、ここではそれは「議論が起こったため」と、ぼかされています。実際、明治26年(1893)には、軍服姿の木型も光雲らによって制作されていますが、破棄されました。
ところで、現在の着物姿は、光雲によれば「西郷さんが閑を見てはよく出掛けた兎の山狩のあの構図」。散歩ではありません。この点についての『小樽新聞』の談話筆記は、以下の通り。
あれを犬を連れて散歩してゐるんだなどといふ人があるが大間違ひだよ、その証拠には、腰にはわなを作る縄の束がぶら下つてゐるし、小さな刀を差してゐるが、これも山狩の時、いばらや篠竹を切り倒すにのに使ふものだ。あの犬は兎追ひの犬で桜島産の独特の小さいが悧巧な奴で西郷さんもよく可愛がつてゐたものださうだ。
なるほど。
そして、顔。
構図はさて決まつたが、写真があるわけではなし顔には弱つた。
人によつては西郷さんは目玉がらんらんと大きくて非常に恐ろしい顔つきをしてゐる、にらまれるとすくみ上る様な顔だつたといふし、ある人は目の切れの長い聡明な顔で眉毛がこく口元は一文字に引締つてむしろ可愛らしい顔つきで笑ふととても柔和だつたともいふし、つまり御機嫌のいい時と悪い時の相違だつたんだらうが、これ等の人の印象をまとめて、ああいふ風に仕上げたのだが、次には身丈がどの位あつたかといふ点で、また行きづまつてしまつた。
陸軍で調べてもらつても一向分らんし、西郷さんのきてゐた軍服や長靴、晴子などを取り寄せてもらつて調べて見たところズボンはわたしの胸まで来るし、長靴はももまでもはゐるといふ代物、帽子のあご革は西郷さんの汗や脂で、真つ黒になつてゐたが、これまたわたしの顔を一ト回り半もする長いものでとにかく非常に大男だつたことは、はつきりしたわけだ。
やはり生前の西郷を知る人々の証言を取り入れていたことがわかります。「似ていない」説は成り立たないといえるのではないでしょうか。
そして再び服装。
スネのはみ出したつんつるてんの着物はいかにも滑稽のやうにも思へるが、西郷さんといふ人は殿様から拝領の着物はそのまま縫直さずに着たものださうで、従つて人並はづれた西郷さんが着れば、スネもはみ出さうし、腕も出やうといふものだ。
ここにも深謀遠慮があったのです。
ただし、当人が後から申し述べたことですので、世上の批判に対する自己弁護、と捉えることも可能でしょう。しかし、少なくとも、いいかげんに造ったということには成らないと思います。
さて、大河ドラマ「西郷どん」。除幕式のシーン、どのように描かれるのでしょうか。くれぐれも光雲をディスるような描き方にはなっていないことを祈ります。
【折々のことば・光太郎】
日本の工芸美術は、如何なる時にも遠慮無く世界の人の前に持ち出せるだけの秀美さを持つてゐる筈である。其は過去の日本が遺していつてくれた審美的遺伝の一つである。
散文「日本工芸美術会に望む」より 大正15年(1926) 光太郎44歳
光太郎、銅像も広義の工芸と捉えていたかもしれません。ただし、芸術としての肖像彫刻とは一線を画するものという認識でした。