年末恒例、この一年をふり返ってみます。まずは1~3月です。
1月5日(木)
十和田市の劇団「エムズ・パーティー」さんが、光太郎の人生と十和田湖畔に立つ乙女の像に込められた思いを描いた「乙女の像ものがたり」のDVDを制作し、同市の小山田久市長に報告なさいました。
十和田市の劇団「エムズ・パーティー」さんが、光太郎の人生と十和田湖畔に立つ乙女の像に込められた思いを描いた「乙女の像ものがたり」のDVDを制作し、同市の小山田久市長に報告なさいました。
1月7日(土)
同日、幻戯書房さんから、平田俊子氏著『低反発枕草子』が刊行されました。『静岡新聞』さんに、平成26年(2014)から翌年にかけて連載された同名のエッセイの単行本化です。その頃の花巻高村光太郎記念館さん訪問記等を含みます。
1月21日(土)・22日(日)
新宿区の絵空箱さんにて、「蒼井まつりひとり芝居『売り言葉』」公演がありました。「売り言葉」は、平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、大竹しのぶさん出演で初めて上演されました。登場人物は智恵子のみの一人芝居です。
1月21日(土)~3月20日(月)
町田市民文学館ことばらんどさんで企画展示「野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-」が開催され、光太郎から野田宛の書簡が展示されました。
1月23日(月)~4月22日(土)
千代田区立千代田図書館さんの9階 展示ウォールで、「検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の仕事と横顔」が開催され、光太郎と交流のあった佐伯郁郎が取り上げられ、光太郎にも触れられました。
千代田区立千代田図書館さんの9階 展示ウォールで、「検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の仕事と横顔」が開催され、光太郎と交流のあった佐伯郁郎が取り上げられ、光太郎にも触れられました。
1月24日(火)・25日(水)
名古屋市のHITOMIホールで「プリズムステージ ~朗読と音楽で紡ぐ、純愛~ 智恵子抄 「田園交響楽」より」の公演がありました。
1月24日(火)~4月9日(日)
三重県立美術館さんで、企画展「再発見!ニッポンの立体」。が開催されました。昨年、群馬県立館林美術館さん、静岡県立美術館さんを巡回した企画展の最終会場で、光太郎のブロンズ彫刻が2点、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)、光雲の木彫も2点、「江口の遊君」(明治32年=1899)、「西王母」(昭和6年=1931)が展示されました。
1月25日(水)
三重県立美術館さんで、企画展「再発見!ニッポンの立体」。が開催されました。昨年、群馬県立館林美術館さん、静岡県立美術館さんを巡回した企画展の最終会場で、光太郎のブロンズ彫刻が2点、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)、光雲の木彫も2点、「江口の遊君」(明治32年=1899)、「西王母」(昭和6年=1931)が展示されました。
1月25日(水)
NHKBSプレミアムさんで、「にっぽんトレッキング100 絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」が放映され、大正2年(1913)の光太郎智恵子の上高地行が紹介されました。
1月27日(金)
勉誠出版さんから、『平川祐弘決定版著作集7 米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯/高村光太郎と西洋』が刊行されました。平成8年(1996)に新潮社さんから刊行されたものの復刊です。
勉誠出版さんから、『平川祐弘決定版著作集7 米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯/高村光太郎と西洋』が刊行されました。平成8年(1996)に新潮社さんから刊行されたものの復刊です。
1月28日(土)
『日本経済新聞』さん夕刊の連載「文学周遊」で「高村光太郎「典型」 岩手・花巻市 小屋にゐるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ。」が掲載されました。
同日、銀座のシンワアートミュージアムさんで、「シンワアートオークション近代美術PartⅡ」が開催され、光太郎のブロンズ「野兎の首」が出品されました。
1月28日(土)~3月12日(日)
山口県下関市立美術館さんで、「特別展「動き出す!絵画 ペール北山の夢 モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」が開催されました。昨年、東京ステーションギャラリーさん、和歌山県立近代美術館さんと巡回した展覧会の最終会場でした。光太郎の油絵2点、「上高地風景」「佐藤春夫像」、さらに『現代の洋画』、『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)、『生活』、『多津美』など光太郎も寄稿していたさまざまな美術雑誌、ヒユウザン会展のポスターなどが展示されました。
山口県下関市立美術館さんで、「特別展「動き出す!絵画 ペール北山の夢 モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」が開催されました。昨年、東京ステーションギャラリーさん、和歌山県立近代美術館さんと巡回した展覧会の最終会場でした。光太郎の油絵2点、「上高地風景」「佐藤春夫像」、さらに『現代の洋画』、『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)、『生活』、『多津美』など光太郎も寄稿していたさまざまな美術雑誌、ヒユウザン会展のポスターなどが展示されました。
1月29日(日)
『しんぶん赤旗』さん日曜版に「この人に聞きたい 生き残った人たちの負い目 父の思い抱き戦争を描く 劇作家・演出家・俳優 渡辺えりさん」が掲載されました。お父様の渡辺正治氏と光太郎との交流に触れられています。
2月3日(金)
『朝日新聞』さんの山梨版。俳優・柳生博さんの子息で、八ケ岳南麓にてレストラン&ギャラリー「八ケ岳倶楽部」を営まれている柳生宗助さんの連載コラム「柳生さんちの八ケ岳日記」の、「野鳥観察も寒いほどお得に」で、光太郎の木彫「うそ鳥」に触れて下さいました。
同日刊行の雑誌『東京人』3月号に「女性解放に奔走した女たち。 雑誌「青鞜」と平塚らいてう」という記事が掲載され、智恵子にも触れられました。
2月3日(金)~2月26日(日)
青森県十和田湖畔休屋地区で、毎年恒例の「~光と雪のページェント~ 十和田湖冬物語2017」が開催され、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されました。
青森県十和田湖畔休屋地区で、毎年恒例の「~光と雪のページェント~ 十和田湖冬物語2017」が開催され、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されました。
2月3日(金)~3月12日(日)
小平市平櫛田中彫刻美術館さんで、特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」が開催されました。光太郎ブロンズ「手」「腕」「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作が展示されました。
小平市平櫛田中彫刻美術館さんで、特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」が開催されました。光太郎ブロンズ「手」「腕」「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作が展示されました。
2月10日(金)
みすず書房さんから土田昇氏著『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』が刊行されました。光太郎、光雲にも触れられています。
みすず書房さんから土田昇氏著『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』が刊行されました。光太郎、光雲にも触れられています。
2月17日(金)
山と渓谷社さんから、同社編・『紀行とエッセーで読む 作家の山旅』が、ヤマケイ文庫の一冊として刊行されました。光太郎の詩「山」(大正2年=1913)、「狂奔する牛」」(同14年=1925)、「岩手山の肩」昭和23年(1948)が掲載されました。
山と渓谷社さんから、同社編・『紀行とエッセーで読む 作家の山旅』が、ヤマケイ文庫の一冊として刊行されました。光太郎の詩「山」(大正2年=1913)、「狂奔する牛」」(同14年=1925)、「岩手山の肩」昭和23年(1948)が掲載されました。
2月22日(水)
『毎日新聞』さんの連載コラム「季語刻々」で、光太郎の俳句「春の水小さき溝を流れけり」が取り上げられました。
『毎日新聞』さんの連載コラム「季語刻々」で、光太郎の俳句「春の水小さき溝を流れけり」が取り上げられました。
2月24日(金)
千葉県柏市のアミュゼ柏で「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」公演がありました。第二部が「智恵子抄」系で、「歌と朗読とピアノのコラボ」。佐藤直江さん作の「星になった智恵子」―智恵子一人称の独白スタイル―を山田典子さんが朗読され、合間に青木省三さん作曲の「智恵子抄三章」をオペラ歌手・大久保光哉さんが歌われました。
千葉県柏市のアミュゼ柏で「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」公演がありました。第二部が「智恵子抄」系で、「歌と朗読とピアノのコラボ」。佐藤直江さん作の「星になった智恵子」―智恵子一人称の独白スタイル―を山田典子さんが朗読され、合間に青木省三さん作曲の「智恵子抄三章」をオペラ歌手・大久保光哉さんが歌われました。
2月26日(日)
小平市の放送大学東京多摩学習センターさんで、平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」関連行事として美術講座「ロダンと近代日本彫刻」が開催されました。講師は同館学芸員・藤井明氏でした。
小平市の放送大学東京多摩学習センターさんで、平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」関連行事として美術講座「ロダンと近代日本彫刻」が開催されました。講師は同館学芸員・藤井明氏でした。
3月3日(金)
仙台市に本社を置く地方紙『河北新報』さんに「<あなたに伝えたい>元気くれる絵手紙に涙」という記事が掲載され、平成23年(2011)の東日本大震災の津波で亡くなった、女川光太郎の会の故・貝(佐々木)廣氏、奥様の英子さんが取り上げられました。
仙台市に本社を置く地方紙『河北新報』さんに「<あなたに伝えたい>元気くれる絵手紙に涙」という記事が掲載され、平成23年(2011)の東日本大震災の津波で亡くなった、女川光太郎の会の故・貝(佐々木)廣氏、奥様の英子さんが取り上げられました。
3月3日(金)~12日(日)
京都市の知恩院さんで、「知恩院 春のライトアップ2017」が行われ、同寺補陀落池に立つ光雲原型の聖観音菩薩立像もライトアップされました。
京都市の知恩院さんで、「知恩院 春のライトアップ2017」が行われ、同寺補陀落池に立つ光雲原型の聖観音菩薩立像もライトアップされました。
3月4日(土)
東京小平市のルネこだいらさんで、小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」の関連行事「音楽とめぐるロダンの世界」が開催されました。日本大学芸術学部の髙橋幸次教授によるご講演。題して「ロダン歿後100年。本当のロダンをご存知ですか?」、ソプラノの斉藤智恵美さん、ピアノの竹内綾さんのかわいらしいお二人組ユニット「ラ・ペスカ」によるフランス音楽などの演奏が行われました。
3月5日(日)
新潟市東区プラザ ホールで福島大学・うつくしまふくしま未来支援センター主催 新潟シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで ―復興を進める福島の経験を共有し将来につなげる―」が開催されました。
新潟市東区プラザ ホールで福島大学・うつくしまふくしま未来支援センター主催 新潟シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで ―復興を進める福島の経験を共有し将来につなげる―」が開催されました。
3月8日(水)
福島県喜多方市の喜多方プラザホールで「マリンバの響き ~智恵子抄の世界~」公演がありました。マリンバ・松本律子さん、朗読・中村雅子さんでした。
福島県喜多方市の喜多方プラザホールで「マリンバの響き ~智恵子抄の世界~」公演がありました。マリンバ・松本律子さん、朗読・中村雅子さんでした。
3月15日(水)
信州安曇野の碌山美術館さんから『碌山美術館報 第37号』が刊行されました。昨年8月、同館の夏季特別企画展「高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として行われた、当方の記念講演「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」の筆記録が掲載されています。
信州安曇野の碌山美術館さんから『碌山美術館報 第37号』が刊行されました。昨年8月、同館の夏季特別企画展「高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として行われた、当方の記念講演「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」の筆記録が掲載されています。
3月17日(金)
集英社文庫から森まゆみ氏著『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』が刊行されました。同社から平成25年(2013)に刊行されたハードカバーの文庫化です。智恵子にも触れられています。
集英社文庫から森まゆみ氏著『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』が刊行されました。同社から平成25年(2013)に刊行されたハードカバーの文庫化です。智恵子にも触れられています。
ドイツ・ハイデルブルグのJakobusgemeinde Neueで、野村朗氏作曲の「連作歌曲 智恵子抄」が演奏されました。歌・新井俊稀氏、智恵子役・ 北野温子さん、ピアノ・木下敦子さんでした。
3月25日(土)
テレビ東京さんの「美の巨人たち 平櫛田中『鏡獅子』彫刻家の信念と覚悟▽5代目尾上菊之助の思い」が放映され、光雲にも触れられました。再放送はBSジャパンさんで4月19日(水)でした。
テレビ東京さんの「美の巨人たち 平櫛田中『鏡獅子』彫刻家の信念と覚悟▽5代目尾上菊之助の思い」が放映され、光雲にも触れられました。再放送はBSジャパンさんで4月19日(水)でした。
3月27日(月)
岩波書店さんから『岩波茂雄文集 第3巻』が刊行されました。光太郎もスピーチをした昭和17年(1942)の「回顧三十年感謝晩餐会」等について触れられています。
岩波書店さんから『岩波茂雄文集 第3巻』が刊行されました。光太郎もスピーチをした昭和17年(1942)の「回顧三十年感謝晩餐会」等について触れられています。
明日は、4~6月です。
【折々のことば・光太郎】
漫画といふやうなうまい名は泰西に無い。さういふのんびりした、達観的な、又無意識的な思想が、ひとり立ちに立つてゐられない程、人種的にせち辛いのであらう。
散文「カリカチユア」より 大正15年(1926) 光太郎44歳
明治期には雑誌『スバル』の裏表紙などで光太郎も取り組んでいた、カリカチュアに関する散文です。
左は与謝野晶子、右は森鷗外。それぞれさんざんお世話になっていた先輩方ですが、光太郎の手にかかるとこうなります(笑)。
同じ文章では、漫画の祖を、「鳥獣人物戯画」の鳥羽僧正としています。今日、それは定説ともいえるものですが、大正末にそうした発言をしていたのは、意外と早い時期の指摘なのではないでしょうか。