昨日に引き続き、最近の頂き物から。昨日ご紹介した『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』を書かれた逸見久美先生の弟子筋に当たられる、小清水裕子氏(今年の連翹忌にご参加下さいました)の御著書です。 

歌人 古宇田清平の研究――与謝野寛・晶子との関わり――

2014年6月30日 小清水裕子著 鼎書房 定価6,500円+税

新資料となる、清平宛与謝野寛・晶子の書簡を翻刻。書簡から第二次「明星」「冬柏」の発刊意義を考察する。

目次
 序 古宇田清平の研究にあたって
 第一章 古宇田清平その人物像と与謝野寛・ 晶子との関係
  作歌活動一覧 清平略年譜 清平宛 寛・晶子書簡一覧
  清平農業関係論文・著書一覧
 第二章 清平の投稿時代(大正三年~大正十年十月)
  第一節 投稿時代とその作品
  第二節 第二次『明 星』復活に向けて
 第三章 清平の第二次『明星』時代(大正十年十一月~昭和
四年)
  第一節 第二次『明星』発刊意義
  第二節 第二次『明星』での清平
  第三節 第二次『明星』時代とその作品
   一、清平歌集出版に向けて
   二、盛岡時代
   三、野の人の生活・山形県戸沢村時代
    ①寛・晶子の十和田吟行
    ②第二次『明星』終刊から『冬柏』へ
 第四章 清平の『冬柏』時代(昭和五年~昭和十年)
  第一節 『冬柏』発刊意義
  第二節 『冬柏』時代とその作品
   一、山形県豊里村時代
   二、青森へ
 結 本研究の意義と今後の課題
 参考文献 
 資 料
  清平詠歌集
   一、『摘英三千首 與謝野晶子撰』(大正六年十月二十日)
   二、第二次『明星』(大正十年十一月~昭和二年四月)
   三、『冬柏』(昭和五年四月~昭和十年一月)
  清平宛 寛・晶子書簡集
 引用・参考文献
 あとがき
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古宇田清平(明治26年=1893 ~ 平成2年=1990)は、第二次『明星』、『冬柏』に依った歌人ですが、いわゆる専門の歌人ではなく、九州や東北で農業技師として働きながら作歌に励みました。ある意味、宮沢賢治を彷彿とさせられましたが、古宇田は盛岡高等農林学校の出身で、賢治の先輩に当たります。その実生活に根ざした歌の数々が鉄幹・晶子の目に止まり、新詩社の主要な同人として迎えられています。ただ、地方歌人という先入観もあったのでしょう、かつては注目されることのほとんどなかった人物です。当方も存じませんでした。

その古宇田の評伝をメインとしつつ、こうした地方歌人が重用された第二次『明星』、『冬柏』の位置づけに言及する労作です。

第二次『明星』の創刊(復刊)は、大正10年(1921)。光太郎外遊中の明治41年(1908)に第一次『明星』が廃刊してから13年の時を経てのことでした。古宇田に宛てた復刊当時の鉄幹・晶子の書簡などによれば、同人に自由に作品を発表してもらう、総合文芸誌的な方向性でした。第一次の頃から新詩社の秘蔵っ子だった光太郎も、その復刊第一号に寄せた有名な詩「雨にうたるるカテドラル」をはじめ、実にさまざまなジャンルの作品を発表しています。短歌、詩、エッセイ、評論、翻訳(戯曲、詩、散文)、果ては絵画まで。

ただ、同誌は店頭販売ではなく申し込みによる直接購読を主としたことや、鉄幹・晶子が『日本古典全集』など他の仕事にも多忙を極めたことなどから、昭和2年(1927)に休刊(事実上の廃刊)となりました。しかし、『明星』復活への希望は抑えがたく、それまでのつなぎとして、総合文化誌の体裁ではなく詩歌方面に内容を限定した『冬柏』が創刊されたとのこと。当方、その辺りの事情には暗かったので、なるほど『明星』時代にはさまざまなジャンルの作品を寄せていた光太郎も、『冬柏』になるとそれがぐっと減ったのはそういうわけか、と膝を打ちました。

そしてメインの古宇田の歌。第二次『明星』、『冬柏』時代のものはほぼすべて網羅され、しかも一首ごとに細かく評釈がなされていて、理解の手助けとなりました。中には戦後の花巻時代の光太郎がたびたび逗留し、当方も定宿としている大沢温泉さんでの作などもありました。他にも技師として赴任した盛岡や山形での作には、やはり彼の地の厳しい冬を読んだものが多く、光太郎の詩との類似点を感じました。

もっと注目されていい歌人だというのはその通りだと思いました。


もう1点、同じ小清水氏から、日本文学風土学会さんの紀要『日本文学風土学会紀事』第41号の抜き刷りもいただきました。題して「与謝野寛・晶子の渡欧」。

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奥付等が無いのですが、今年3月発行の『碌山美術館館報』第37号を参照されたとのことですので、つい最近のものでしょう。

参照された点は、外交資料館さんに残されている「外国旅券下附表」の記載。パスポートの申請に際し、「旅行目的」という項目も報告することになっており、荻原守衛は「修学」、光太郎は「美術研究」、では、明治44年(1911)に渡欧した鉄幹、翌年にそれを追った晶子は、ということで、調べられたとのこと。それによれば鉄幹は「芸術研究ノ為」、晶子は「漫遊ノ為」だそうです。

第一次『明星』廃刊後、スランプに陥っていた鉄幹に、見聞を広め、新たな創作の動機づけとしてほしいとの思いから、晶子が「百首屏風」などを作って金策にかけずり回り、鉄幹を欧州へと送り出しました。渡航後の鉄幹は、ぜひ晶子にも彼の地の風物を見て欲しいと、晶子を呼び寄せます。鉄幹は船旅でしたが、晶子はシベリア鉄道を使っての欧州行となり、鉄幹は晶子宛の書簡で、できれば欧州の事情に通じている光太郎を連れてくるよう指示しました。結局、光太郎の同行はかないませんでしたが、それなら経由地から送る電報の文面は光太郎に書いてもらっておけという指示も、鉄幹が出しています。いかに夫妻が「秘蔵っ子」光太郎を頼りにしていたかがわかるエピソードです。

このあたり、当方、逸見先生編の『与謝野寛・晶子書簡集成』(八木書店)で読んでいるはずなのですが、もう一度当たってみようと思いました。

与謝野夫妻、パリでは光太郎からアトリエを引き継いだ梅原龍三郎の世話になったり、ロダンを訪ねていたりもしています。この辺も興味深いところです。


こうした、寄稿した雑誌や周辺人物との絡みなどから見えてくる光太郎の姿、また違った一面が見えてくるものだな、と実感させられました。

また近々、他の方から頂き物が届く手はずになっており、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

活人剣即殺人剣だ。
散文「味ふ人」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

雑誌『現代之美術』第4巻第3号「女性と芸術」号に寄せた文章です。まだ送りがなのルールが確定していない時代ですので「味ふ」で「あじわう」と読みます。

埃及以来数千年間に女流の美術家が出なかつたからといつて、今後数千年間にやはりでないだらうとは云へない。しかし今日迄然うであつた「事実」の底には何か執拗な自然の理法があるやうに思ふ。」と始まるこの文章、決して女性は駄目だ、と言っているわけではなく、女性が芸術家として大成するためには、男性以上にさまざまなことを犠牲にせねばならないという点に主眼があります。そこで、「活人剣即殺人剣だ」というわけです。

光太郎が想起していたのは、男女の分担が可能な家事労働という部分ではなく(光太郎はかなり家事も行っていました)、決して男性には担えない出産、育児という部分でしょう。育児は違うだろう、と突っ込まれるかもしれませんが、「イクメン」であっても、母乳は出せません。

そこで、同じ文章には「其を思ふと、女性で美術家にならうとする人を痛ましくさへ感ずる。悲壮な感じを受ける。むろん普通の女性としての一生を犠牲にしてかからねばならない事で中々なまやさしい甘つたるい事ではあるまいと思ふ。」とも書かれています。「出産を放棄する」=「普通の女性としての一生を犠牲にする」、つまり、「産まない」という選択は普通ではない、という考え方ですね。たしかにすべての女性が「産まない」という選択をしてしまったら、人類は滅びてしまうわけですが……。

このあたりで止めておけばよいものを、こんなことも書いています。

女性は偉大な男性の文芸家を生み、育て、教訓し、又激励した事の方で、今日まで人類に貢献してゐた。」「私が一番女性に望むのは、美術をほんとに深く「味ふ」人になつてもらいたい事だ。受け入れて「味ふ」能力は或は一般の男性よりも多いかと思ふ。元来「受け入れる本能」と「創造する本能」とは根本から違つてゐて、女性は前者の本能に富んでゐるやうに作られたかと思はれる位だ。

画家としてその力を発揮できぬまま心を病んだ智恵子も、この文章を読んだ可能性が高いと思います。結局、光太郎は自分の画を認めてくれないと悟った智恵子の衝撃はいかほどのものだったのでしょうか。

余談になりますが、「智恵子は光太郎に潰された」的な要旨のいわゆるジェンダー論者の論考を時折眼にします。そうした論者がこの文章を読んだら、「それ見たことか」と、鬼の首でも取ったように扱いそうな内容なのですが、従来、ほとんどといっていいほどこの文章は注目されていません。不思議なものです。