少し前に刊行されたものですが、最近戴いた書籍をご紹介します。 

夢二と久允 二人の渡米とその明暗

2016年4月30日 逸見久美著 風間書房 定価2000円+税

著者の父・作家翁久允は竹久夢二の再起をかけて同伴渡米を決行する。久允の奔走、邦字新聞「日米」争議、夢二との訣別―。日記や自伝をふまえ、二人の運命の軌跡を辿る。

目次
 一 ふとした機縁から001
 二 落ちぶれた夢二の再起をはかる久允
 三 翁久允とは
 四 夢二との初対面の印象
 五 夢二画への憧れ
 六 榛名山の夢二の小屋からアメリカ行き
 七 夢二と久允の世界漫遊の旅と夢二フアン
 八 久允の『移植樹』と『宇宙人は語る』
           ・『道なき道』の出版
 九 久允の朝日時代
一〇 いよいよアメリカへ向かう前後の二人
一一 「世界漫遊」に於ける報道のさまざま
一二 夢二にとって初の世界漫遊の船旅
一三 ハワイへ向かう船中の二人とハワイの人々
一四 ホノルルに於ける夢二と久允の記事の数々
一五 いよいよアメリカ本土へ
一六 「沿岸太平記」―「世界漫遊」の顛末
一七 年譜にみる夢二の一生
一八 渡米を巡っての夢二日記
 あとがき

著者の逸見久美先生は、与謝野鉄幹晶子研究の泰斗。連翹忌にもご参加いただいております。光太郎が『明星』出身ということもありますが、お父様の翁久允(おきなきゅういん)と光太郎に交流があったあったためでもあります。

翁は明治40年(1907)から大正13年(1924)まで、シアトルとその周辺に移民として滞在、現地の邦字紙などの編集や小説などの創作にあたっていました。帰国後、東京朝日新聞に入社、『アサヒグラフ』や『週刊朝日』の編集者として活躍します。そして、『週刊朝日』に掲載するため、それまでの文部省美術展覧会(文展)から改称された帝国美術院展覧会(002帝展)の評を光太郎に依頼しています。『夢二と久允』巻末に、光太郎からの返答が紹介されています。

御てがみ拝見、
ホヰツトマンの引合はせと思ふと、
大ていの事は御承諾したいのですが、昔から毎年荷厄介にしてゐる帝展の批評感想だけは、おまけに十六日開会で十七日に書いてお届けするといふやうな早業ときたら、とても私には出来ない仕事ですよ。
私ののろくさと来たらあなたがびツくりしますよ。
此だけは誰かに振りかへて下さい、
   翁久允様 六日夜 高村光太郎

封筒が欠落しており、便箋のみ翁遺品のスクラップ帳に貼り付けてあったとのことで、消印が確認できないため、年が特定できません。

3年ほど前、逸見先生から「うちにこんなものが有りますよ」と、情報をご提供いただいた際、「帝展」「十六日開会」というキーワードで調べれば、何年のものか特定できるだろう、とたかをくくっていましたが、いざ調べてみると、翁が『週刊朝日』編集長を務めていた時期の帝展は、昭和2年(1927)の第8回展から同6年(1931)の12回展までがすべて10月16日開会で、この間としか特定できませんでした。

同書には他に三木露風、今井邦子、宇野千代、堀口大学、吉屋信子、吉井勇、横光利一、鈴木三重吉、中原綾子、吉川英治らからの書簡の画像も掲載されています。翁の顔の広さが偲ばれますが、本文を読むと、さらに田村松魚・俊子夫妻、田山花袋、菊池寛、北原白秋、西條八十、堺利彦、直木三十五、相馬御風、岸田劉生、川端康成、有島生馬ら、綺羅星の如き名が並んでいます。

そして竹久夢二とは、大正15年(1936)が初対面でした。当方、夢二には(特にその晩年)、あまり詳しくないので意外といえば意外でしたが、この頃になると夢二式美人画のブームが過ぎ、落魄の身だったそうです。翁はそんな夢二をもう一度世に押し出そうと、世話を焼いたそうです。

イメージ 3

こちらは同書に掲載されている、たびたび翁家を訪れていた夢二がが描いたスケッチ。描かれているのは逸見先生とお姉様です。逸見先生、「少しこわい小父さん」というイメージで夢二を記憶されているとのこと。しかし、生前の夢二をご存じというと、「歴史の生き証人」的な感覚になってしまいますが、失礼でしょうか(笑)。

お父様はかなり豪快な方だったようで、もう一度夢二を陽の当たる場所に、という思いから、朝日新聞社を退職、その退職金をつぎ込んで、夢二を世界漫遊の旅に連れ出しました。昭和6年(1931)のことです。行く先々で夢二が絵を描き、展覧会を開いてそれを売り歩くという、興行的な目論見もあったとのこと。

しかし、ある意味性格破綻者であった夢二との同行二人はうまくいくはずもなく、旅の途中で二人は決裂してしまいました。夢二は昭和8年(1933)に帰国しましたが、翌年、結核のため淋しく歿しています。


ちなみに、遠く明治末の頃、ごく短期間、太平洋画会に出入りしたという夢二は、そこで智恵子と面識があったようです。明治43年(1910)の夢二の日記に智恵子の名(旧姓の長沼で)が現れます。8月21日の日付です。

家庭の巻頭画の長沼さんの画いたスケツチが出てゐる、実に乱暴な筆で影の日向をつけてある、まるで油のした絵のよふなものだ、女の人がこうした荒い描き方をする気がしれない、ラツフ、印象的な、この頃 外国で試みられてゐるあの筆法に自信をはげまされたのであろうけれど、外国の人々のやる荒い乱暴に見える描き方と この女作家のとは出発点と態度が違ふよふにおもはれる、やはり謙遜な純な心で自然を見てその時のデリケートな或はサブライムな感じをそのまゝ出せばあゝした印象風なフレツシユなものが出来るのだとおもふ、はじめつから、一つ描いてやろうといふ考へでやつたつてもだめではないかしら。

「家庭」は智恵子の母校、日本女子大学校の同窓会である桜楓会の機関誌。署名等がないので巻号が特定できませんが、智恵子がたびたび挿画やカットを寄せました。

さらに前月14日には、神田淡路町に光太郎が開き、この頃には大槻弍雄に譲られていた画廊・琅玕洞の名も。

隈川氏来る。共に琅玕洞へゆく。柳氏の作品を見る。下らないものばかり。更に感心せず。

「柳氏」は光太郎の親友・柳敬助。妻の八重は智恵子の女子大学校での先輩で、光太郎と智恵子を結びつけました。

智恵子や柳の作風と、夢二のそれとでは相容れないものがあるのはわかりますが、けちょんけちょんですね(笑)。こうした部分にも夢二という人物が表れているような気がするのは、智恵子・柳に対する身びいきでしょうか。


閑話休題。『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』。実に読み応えがあります。また、その名が忘れ去られかけている翁久允の伝記としても、興味深いものです。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

彫刻を見て、主題の状態を第一に考へる人は極めて幼稚な鑑賞者です。又さういふ処をねらつて製作する彫刻家は幼稚な作家です。

散文「彫刻鑑賞の第一歩」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

彫刻作品を見る際、「主題の状態」つまり「5W1H」に気を取られてはならない、ということです。同じ文章の中で、ミケランジェロのダビデ像を例に、「ダビデがゴライヤスを撃たんとして石を手にしてねらつてゐる所」というのは、「此の彫刻の一時的価値の中には這入りません」としています。また、両腕の欠損してしまっているミロのヴィーナスのように「何をしている所といふ事が殆ど問題にならない程人の心を動かすものが善いのです」とも。

光太郎自身、留学前は「5W1H」に囚われた愚劣な彫刻を作っていた、と反省しています。「滑稽な主題と構想」「俄芝居じみた姿態」というふうに。